チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」

フリッチャイ指揮 ベルリン放送交響楽団(1959)
正直に言う。このこ曲は今まで一度も感動できる演奏に出会った事が無かった。しいて言えば朝比奈隆盤のけれんみの無い真摯な演奏を気に入っていたぐらいである。
フリッチャイの「悲愴」(1959)は第1楽章の一部をフリッチャイが再録音を希望するも死去により実現しなかったため40年近くお蔵入りになっていたという、いわば幻の「悲愴」らしい。ネット上でも絶賛の嵐である。
聴いてみて納得。音楽が語っている。歌っている。激昂している。しかも細部まで丁寧に。
それも、語るべきところで語り、歌うべきところで歌い、激昂するべきところで激昂しているのである。当たり前じゃないかと言う事なかれ、それが出来ている指揮者がどれだけいることか。以前、あるドラマについて「造園業を営む主人公の父親が、庭作りがうまくいかない時は、木や石が語りかける言葉に耳を傾け、彼らの在りたいようにしてあげると語った」と書いたが、つまりはそういうことである。楽譜が演奏して欲しいように演奏する。もちろんその方法論は指揮者によって変ってくるのであるが。結局私の好きな指揮者は皆それを実現していると言うことだ。
第1楽章が終わって、もう交響曲1曲聴いたぐらいの心地良い疲労感でぐったりとなって、もうここでやめようかと思った。しかし第2楽章の5拍子ワルツ、これほど優美さと厳しさが同居する演奏を聴いたことが無い。さらに第3楽章の推進力、第4楽章の表面にとらわれない表現力(矛盾しているかもしれないが矛盾してない)結局一気に聴いてしまい、正直この曲ではじめて感動した。いい曲だと思った。チャイコフスキーなのに(って失礼な)ブルックナー並みの感動だった(って感動の基準は結局ブルックナーなんです私は)
で、例の勝負はダントツでフリッチャイの勝ち。

ちなみにベルリン放送交響楽団とは、元をRIAS交響楽団(1946年設立)と言い、初代主席指揮者がフリッチャイ、その後1956年にベルリン放送交響楽団、1993年ベルリン・ドイツ交響楽団と改名して現在に至っているが、設立当初は東ドイツから逃れてきた名演奏家がこぞって入団したため、ベルリンフィル並みの技術を誇っていたらしい。

余談
以前クナパーツブッシュについて、どんな作曲家の曲を聴いても、その作曲家を聴くのではなく、クナを聴く喜びになると書いた事がある。上記と言ってることが違うじゃないかといわれそうだが、クナの場合は楽譜を通り越して、作曲家のところまで(霊体か?)行って膝詰直談判して、「こうやりたいんだけど、今回ちょっと折れてよ」等と対等に話をつけてあの演奏をしているのではないか、などと思ってしまう。そのぐらい彼の演奏は深いし、それがゆえに彼にしか許されない世界なのだ。