私と音楽

本日もmixiと同じ文章、一般にはたわ言の類なので、あまり気にしないで下さい。

私は音楽が好きです。音楽を聴いたときの感動を、多くの人に味わって欲しい。そしてその感動を与える側にまわりたい。そう思って私はミュージシャンを目指しました。一応はプロになることが出来ましたが、その期間は短いものでした。
私は好奇心が旺盛でした。そしてなぜか使命感がありました。何かエポックメイキングな、人類の芸術史上に重要な役割を果たすような、そんな音楽をやらなければ、と言う思いから、クラシック、民族音楽、邦楽、その他もろもろ、貪欲に吸収しました。しかし、あげくに何をやっていいのか分からなくなりました。
若い頃は、何も考えずにどんどん詞や曲が書けたものでしたが、それも出来なくなりました。どんなジャンルの、どんな曲がうかんでも、少しでもどこかで聞いたことがあるようだと、もうダメだと思ったり、このジャンルでいいのだろうか、もっと他に、表現する方法があるような気がする、と思い始めて詞や曲が書けなくなったのです。
なぜ自分はこうなのだろうか、考えすぎなのだろうか、なぜミュージシャンとして成功できないのだろうか、と思い悩みました。もしかしたら、何も考えずに例えば「歌手」だけとか「ベーシスト」だけに専念すればよかったのだろうか、とか、なんとしてでもプロということしがみついて、貪欲に行動するべきだったのだろうか、とか、ひたすら売れる音楽をめざせばよかったのだろうか、とか。
しかし、思えばその都度、自分ならぬ何者かが、「いや、そうではない」と、今の道を選ばせていたような気がします。
しばらくすると、『「自分」が音楽をやろう、「自分」が、そういう素晴らしい芸術を作り出そう』としてきたがゆえに、壁にぶつかってそれ以上進めないのだ、と気づいてきました。音楽への意欲を持って生まれてきていながら、壁にぶつかる、その事で、もう一つ上の意識に目覚めさせるためであったように思います。それはつまり『このちっぽけな肉体の「自分」が「自分」の音楽をやろうとすると行き詰るのだ』ということです。もちろん他のミュージシャンはそんな事はないでしょう。これは私だけが、私自身に(生まれる前に)課した課題だったのでしょう。
そう考えると、20年近い普通のサラリーマンとしての一般的な生活も、すべて、そのための修行であった事がわかります。例えば、私はどちらかというと、集団が苦手です。もしミュージシャンや芸術家として若いうちに成功していれば、「芸術家なのだから、このぐらいは」という甘えから、そういうことを克服する機会が無かったかもしれません。
では、何の音楽をやればいいのでしょうか。それは私が本当の自分に目覚めれば、本当の自分が知っているはずだ、と今はわかっています。もしかしたら、自分の使命は音楽ではないのかもしれません。「音楽」はその目覚めのための媒介に過ぎなかったのかもしれません。しかし、そこで「いや、これだけ苦労してきたのだから、絶対に音楽でなければ!」と執着すると、目覚めが遅れます。逆に執着を捨てて「音楽」さえ捨てきった時に、本当の私の「音楽」がかえってくる(生まれてくる)ような気がします。