今日の話は長いのでお暇な方のみどうぞ。まあ聞き流してください。
「正反合」という言葉がある。西洋哲学用語であるが、早い話がAがありました。それに反するBが現れました。AとBが対立し、どっちかが勝ったり、融合したりしてCが出来ました。ということである。(そしてCが次のAになって、繰り返される)
これは日本以外の国々の歴史を見ればよくわかる。ある権力が存在し、それに反する権力が現れた場合、どちらかが勝てば、負けた方は残らない。しかし日本はなぜか、武家政権が誕生した後も皇室がしっかり残っていたりする。
芸術の世界でもそうで、たとえばピアノが登場すればチェンバロは一気にその姿を消す。大編成のオーケストラが登場すると小編成のオーケストラは姿を消す。バッハはメンデルスゾーンが「マタイ」を発掘するまで100年近く忘れられた存在だったし、そのバッハをチェンバロ古楽器で演奏するまでもさらに100年かかっている。プログレは(爆)クリムゾンが1994年に再結成するまでは、死語と化していた(しばらく間プログレの話をする時は、前置きとして「今は死語だけど、昔プログレっていうジャンルがあってねえ」と、などと語っていたのは、ついこの間の話だ!)
翻って我が日本では、雅楽も、能楽も、歌舞伎も、なんでもかんでも、駆逐しあうことなく、ほぼそのままの形で伝わって来ている。お隣中国では、日本に雅楽を伝えた国なのに、残っていないので、逆に雅楽を参考にして復刻したりしている。
導音についてもそうで、これは簡単に言えば半音上昇による緊張とその緩和で、それがいわゆるトニック、ドミナント、サブドミナントの構成の基礎、ひいては西洋音楽の根本になっているが、日本にはそれが無かった。
拍子も、海外の音楽は強拍、弱拍があり、つまりはやはり緊張とその緩和であるが、日本はその区別が無いらしい。よく日本人はリズムが悪いとか、ロックをやってもめりはりが無いとか言われるが、要はそういうことだ。
しかし、あくまで海外を「正しい」とする基準においての話なのに、なぜか我々は、いつの間にか日本が劣っていると思い込んでいなかったろうか。
正反合が無い?緊張と緩和が無い?リズムがのっぺりしてる?いいではないか。つまりは差別感が無いということだ。(だからすべてがそのまま残る)それを日本人の感性として堂々と認めてこそ、真に日本的な芸術(音楽)が生まれてくるのではないだろうか。
日本は明治開国のおり、西欧強国に対応するため、あまりにも急激に西洋文化を取り入れた。そのおかげで、第2次世界大戦までは、他国の侵略を受けずに済む国になりえた。しかしそのおかげで、まず教育の場に邦楽的なものは現れなくなった。西洋音楽を当たり前のように絶対的な基準として教えられた。我々が邦楽的なものを知るのは、子供の頃歌ったわらべ歌か、たまにTVなどで、雅楽や能、歌舞伎をちらちら見る程度で、何の学究的な説明も受けなかった。マスメディアからはどんどん洋楽(と、それっぽい歌謡曲)が流れてくる。日本の音階を西洋音楽の基準に無理やり押し込める事でいびつになってしまった音階を使用している「○歌」なるものが「日本の心」とか言われたりする。それでは日本的なものに誇りを持つことはおろか、「ダサい」と言って排除したくなるのは当たり前ではないか。(「○歌」を聞いて日本的なものはダサいと思っていた方々、ご安心めされ。「○歌」は真の日本的なものではなかったのです。だから日本的なものは決してダサくは無かったのです)
もうそろそろ、そんな弊害を是正してもいいのではないか。故小泉文夫氏は志半ばで夭折された。そのせいかどうか知れないが、1970代からようやく始まった邦楽見直しの気運は、現在けっしてその実を結んでいるとは言いがたい。何とかしなければならない時期に来ているのでは無いだろうか。
ちなみにこれは西洋音楽否定論ではありません。今でも西洋音楽大好きです(笑)