モーツァルト歌劇「フィガロの結婚」エストマン指揮 ドロットニングホルム宮廷劇場管弦楽団(1981)

オペラのLDを焼くぞ!シリーズ!
スウェーデンにある18世紀そのままの歌劇場での公演というのがこのLDの「売り」。書き割りの多重構造の幕やパネルを使用し場面転換をすばやく行えるようになっている。、演奏は古楽器小編成によるテンポの速いすっきりしたもの。しかしレチタティーボの伴奏がピアノなのは重たく聴こえて感心しない。歌手は超一流どころはいないもののまずまずの出来、ただ、気になるのは同じ音程が続く時、必ず最初の音を1音あげること、誰がと言うわけでなくすべての歌手がそうなのだから、明らかに意図的である。18世紀にこんな慣習があったのかは知らないが、大変耳障り。あと、メゾのケルビーノをソプラノが演じている。これは良くあることだからいいとして、伯爵夫人があきらかにメゾあがりの声質なので、声質が逆転していてこれもちょっと気になるところ。
この映像のいいとこころは、本来の設定に近く、全体に登場人物が若く設定されていること。以前にもちらっと書いた(こちら)が伯爵がえらい長身でハンサム(映像を探したがいいのが無かった)通常は必ずと言っていいほど中年になっている伯爵は本来20代、バルトロとマルツェリーナもフィガロの両親なのだからそんなに老人でもないはずだから、やはり40〜50代、ケルビーノは15,6 バルバリーナはさらに下だ!
また、通常はカットされる最終幕のマルツェリーナとバジリオのアリアとその間のシーンがカットされていないのも貴重。マルツェリーナは、直前のレチタティーボのあと、通常は舞台袖に引っ込むのだが、ひっこもうとしたところ、アリアの前奏が始まり「あら、今日は歌わせてくれるの?ありがたいわ」といった風情で舞台中央に戻って歌う演出が面白かった。

以前、1980年ベームのフィガロで、ケルビーノが伯爵夫人にいいよるのを、笑ってあしらう演出が好ましいと書いた。しかし、実は別の見方もある。本来このオペラは貴族階級への批判で大衆間で大ヒットした3部作の戯曲の2番目(1番目が「セビリアの理髪師」)を、貴族階級の批判の部分を抑え、男女間のドタバタ劇にすることにより、宮廷からオペラ化の許可を得て作られたと言う経緯がある。そして、その3番目「罪の母」では、ケルビーノが伯爵夫人に子を産ませた挙句に戦死し、その子が20歳になった時点から始まっているのである。そういう点から見れば、ケルビーノにいいよられる伯爵夫人も、けっこうその気になるという演出のほうが本来なのかもしれない。(近年話題になった、時代を20世紀前半に移し、かなりエロティックな演出がされた公演も、そういう意味では理屈に合っているのかもしれない、でも生々しいしグロいし、やっぱりやだな、こんなフィガロ 下記をはじめようつべでいくつか見れる)
ttp://www.youtube.com/watch?v=PbdHO3OYpV8

しかし、私個人としてはこれはモーツァルトによって新たに生まれ替わった「フィガロの結婚」というオペラとして考えたい。だから伯爵夫人にはケルビーノを相手にして欲しくないのである。