「「赤毛のアン」の秘密」(2004)

小倉千加子
この本を最初に読んだ時はけっこうショックを受けたものだが、いまはかなり客観的に見られると思う。
冒頭著者はプリンス・エドワード島を訪れ「この島に来て、目に見える物すべてに、退屈を超えて憂鬱を覚えている」と語り、当地で日本人観光客向けのガイドのアルバイトに来ている日本人女性が「日本人が見るほどの風景は、アン関係の家は別として何一つないと、軽く言い放った」と語る。
しかし私は、この島を訪れてこの島の風景を絶賛している人のサイトや著書を数多く知っている。私自身は勿論この島を訪れたことは無いので、どちらが正しいのかは判断することは出来ない。しかし、これはいったいどういうことだろう。もちろん個人の感性であるから、人それぞれであるといってはそれまでだが、冒頭にこれをもってくることにより、アンシリーズのファンにショックを与え、自分の主張に引きずり込もうという魂胆だ、と言ったらうがちすぎだろうか。
極端な言い方をすれば(参考になることも多のだが)一事が万事こんな感じで、いみじくも著者があとがきで書いている通り「モンゴメリの評伝という形をとって、日本人女性の結婚観・仕事観・幸福観の特異性を考察したもの」であり、その主張を通さんがための、ある種特異で一方的な方向からのアンシリーズやモンゴメリの日記、書簡等の考察なので、ある意味ミスディレクションに近いものを感じる。
私はフェニミズムが悪いとは全く思わないが、これがフェミニズムだとしたら、それによって解放された女性達の未来ははたして幸福だろうか、と思ってしまう。日本人が赤毛のアンを読む異常性の例として、アメリカ女性についてリサーチしてくれた女性の口を借りて著者はこう語る。
「アメリカの若い女性はもうそういうところに生きています。競争に打ち勝ってサクセスすること、それは自分の能力と絶えず向き合うことだからとても怖いのよね。でもそこから降りるのは、逃避でしょ」
これを皆さんはなるほどと納得されるだろうか。私はこれこそがアメリカが陥っている、誰もがこれではいけないと思いながらもそこから抜けることの出来ない競争社会の病巣であり、日本も足を踏み入れているが、そんな事にはなってはいけない社会の形だと思う。絶えず競争することにかまけ、本当に大切なことに目を向け無いことこそ、本当は逃避なのではないのだろうか。著者が退屈と憂鬱を感じる風景に美しさを感じ、世界中でカナダ以外は誰も読まなくなった赤毛のアンを喜んで読む日本人の感性こそ、本当の意味で世界の未来を切り開いていくのではないだろうか。
そう、実は先日、なぜ日本人ばかりが(負け犬物語である)「フランダースの犬」を好むかという検証映画がベルギーで作られたという話題の時にも思ったのだが、勝者のみを語る欧米文化はもう行き詰まってしまい、未来が立ち行かなくなってきているのではないだろうか。