ブルックナーの心意気

ブルックナーの版問題をややこしくしているのは、「ブルックナーの改訂癖」「ブルックナーの優柔不断」が原因だと今までは言われてきた。晩年に至って、初期の交響曲の改訂を始めてしまって、そのあおりを喰って第9番のフィナーレが完成しなかった件は、ファンでさえも「何してんの!」と言いたくなる。また、弟子のレーヴェ、シャルク等の言いなりになって、演奏前に(聴衆に分かり易いように)オーケストレーションの変更や楽譜のカットを行うに至っては「もっと自分に自信をもって、自作に対する意見を押し通すべきだったのでは」云々。
しかし、最近いろいろと調べてゆくと、(とういうか最近発見された文書かもしれないが)どうも若干意味合いが違うようだ。
ブルックナーは、演奏前のオーケストレーションの変更やカットについては、元の楽譜は厳然として残すようにし「今の聴衆には、自分の曲を理解することは難しい。これらの曲は、もっと後世の聴衆のための音楽なのだ」と語ったらしいのだ。
今でこそ、レコードやCDで当たり前のようにクラシックの曲は、好きな時に何遍でも聴くことが出来る。しかし、レコード発明前は、ブルックナーの同じ曲を一生のうちに何遍も聴く事が可能だった人は皆無であろう。確かに私も、1回や2回聴いてブルックナーの良さがわかってファンになったわけではないのだ。となると、ブルックナーは、自分の曲が1回聴いただけではわからないが、繰り返し聴かれる事により、その真価がわかるという自負を持っていたと言える。優柔不断どころか、かなり頑固なじいさんだ。
そう考えると、初期の曲の改定も、自分にとってより完璧なものに仕上げて、後世の聴衆の判断を仰ぎたいとの執念からだった、とも言えるのだ。
ブルックナーは信仰深かったことでも有名だ。彼の作曲はある意味「神への捧げもの」で当時の聴衆に受ける受けないを超越した、「永世の価値」を念頭においたものだったのかもしれない。