所有せざる人々(1974)

アーシュラ・K・ル・グウィン
「闇の左手」(1969)で、彼女の追及する深遠なテーマを、普通のSFファンでも読みやすくわかりやすい物語にしたことで、ヒューゴー賞ネビュラ賞を受賞し、これでとりあえずどんな作品でも、一応読んでもらえる、と思ったかどうだか、ル・グウィンは再び読者への妥協を廃したような作品を書いた。
これはもう思索小説である。SF的なアクションもサスペンスもほとんど無い(私は気にしないけれど、気にするSFファンは多いと思う)「同時性理論」と宇宙を舞台としていなければ、SFでは無いと言われても反論は出来ないだろう。
正直前半はかなり忍耐を強いられる(勿論、無駄な記述は少しも無いのだが)
それでも再びヒューゴー賞ネビュラ賞を受賞したのだから、欧米のSF界も捨てたものではない(笑)
「所有せざる人々」オドー主義の星アナレスから、二重惑星の片割れ、資本主義の格差社会の星ウラスへ天才科学者がやってくるところから話は始まる。
彼のウラスでのその後と、彼の元の(オドー主義も行き詰まりを見せ始めた)アナレスでのそれまでの過程が交互に語られる。
アナレス編
天才がゆえの孤独とエゴ、人間的成長、彼の研究を許さないアナレスへの絶望、そしてウラスへ旅立つ決心をするまで。
ウラス編
異文化へのとまどい、彼の研究がパワーゲームの駒に過ぎなかったことの理解とそれに対する絶望、命の危険を経て「宇宙連合」へ自分の研究結果を全宇宙へ発表することを託し、裏切り者の汚名を着せられた故郷アナレスへの(後悔なき)帰還。
内容的にシンクロしているが、時系列的には直列的に並んでいるこの二つのストーリーを、並列的に並べるという、「同時性理論」の小説的展開とその証明になっている。
さらに、二つのストーリーは「愛の確立/理解/確信」「オドー主義の確立/理解/確信」という内面的なクライマックスをそれぞれ持つが、実はそれも「同時性理論」の哲学的展開とその証明になっているだ!
なんという凝った緻密な構成であろう。これはもう、とんでもない小説である。
ちなみにテーマが「ユートピア」「デストピア」ということになっているが、結局は「人間とは何か」「人間とはどうあるべき」を思索していることに他ならない。
政治形態、主義主張、はたまた宗教、そんなものがどうであれ、その世界が「ユートピア」かどうかは、そこに住む人間がどうあるか、に依存しているのだ。
そう「天国」とは天使がいる場所ではなく「天国の心」を持った人が住む場所であり、「地獄」とは閻魔大王がいたり、劫火に焼かれる場所ではなく「地獄の心」を持った人が住む場所なのだ。