反音楽史(2004 文庫化 2010)

石井宏
今までの音楽史は、ドイツ人によって書かれた、「音楽形式の完成」(という一面的な価値観)への道のりであり、それに関与した(捏造を含めて)ドイツ人のみを神聖視し、それ以外の存在を意図的に無視することによって形成された、そういう観点から書かれた本。
思えば、中学の頃、音楽事典なるものを買ったのだが、確か昭和30年代初版のもので、音楽用語の他に有名作曲家ものっていたのだが、ワーグナーがえらくページ数を割いてあり、同い年のヴェルディがえらく小さくしか載っていなかった。当時はそういうもんかと思っていたが、徐々にこれはドイツ偏重(哲学性や、和声学の発展こそ価値があるという考え方)だな、と気づき始めて、オペラもワーグナーを敬遠して、ヴェルディプッチーニをしっかり聴くようにしていた。現在は360度回ってワーグナーも聴くようになったけれど。
また、マーラーは交響曲でロマン派の発展としてソナタ形式にとらわれずに作曲を行ったが、ブルックナーソナタ形式にこだわっていた。ゆえに音楽発展史としては、マーラーが上である、という妄説が、いまだに聞かれるのも常々腹が立っていた。
以前、日本の評論家が「ブルックナーは、音楽の三大要素(メロディ、ハーモニー、リズム)の、メロディに欠けているから評価しない」というびっくりするようなばかげた事を書いていたと書いたことがある(こちら
形式だろうが、三大要素だろうが「そんなこと」はあとから付いてくるものであって「音楽の素晴らしさ」とは何の関係も無いのだ。
「音楽形式の歴史」に寄与しなかったがゆえに、誰が聞いても感動できるのに、音楽史上は軽視されてきたモーツァルトが、今の様に人気者になったのは、実はレコードが大量に世の中に出回り始めた20世紀後半なのだ、ということも、覚えておかなければなるまい。
つまりは、和声学がどうこう、形式がどうこう、より、聴いて素晴らしいものが素晴らしい、という当たり前のことが軽視されてきたのだ。
では、なぜドイツ人はそういう捏造をしたのか・・・・・
第一次世界大戦前、ドイツは複数の王国や侯国なのどのよせあつめでしかなかった。周辺諸国の挙国一致体制に対してはるかに遅れていたのだ。その遅れをとりもどすべく、各方面でドイツ的アイデンティティの構築が早急に進められた。(例:「ニーベルンゲンの歌」の再発見がドイツ的アイデンティティの確立に利用された)その一環として、ドイツ的価値観の音楽史の(再)構築(捏造)があったわけだ。
しかし、これにあのシューマンが一役かっていた、てのはちょっとショック(笑)

さらに重要なのが「ドイツのクラシックのほうがイタリアのクラシックより高級である」という妄念への警鐘に加えて「クラシックが他の音楽より高級である」という妄念へも警鐘を鳴らしている事である。
私は(最近はクラシックの事ばかり書いているけれど)ロックも、ジャズ(一部)もポップスも、民族音楽も聴くし、ロックもハードロックからプログレ、アバンギャルドまで聴く。
しかし、クラシックが他の音楽より高級であるとか、プログレが他のロックより高級だ、等という意識は持ったことは無い。単に自分と波長が合って、いいな、と思う音楽を聴いているだけである。
クラシックファンはそれ以外の音楽に対し、また、クラシックを聴かない人はクラシックに対し、また、クラシックファンの中でも、交響曲やオペラ等のジャンルで、みなある種の偏見を持っているような気がするが、これは音楽を楽しむ上で、大変もったいない事だと思う。
 
ここでクイズをひとつ。
この本のカバーは作曲家の肖像が6つ使われている。イタリアの作曲家の顔が黒くなっているのは、上記のような内容から。クラシックが好きな人は、たぶん5つまではわかるであろう。問題は左下の作曲家である。
さてこれは誰でしょう。ヒント:みんな別の肖像画で必ず見たことがある人であるが、ある部分が違うために、たぶんわかりづらくなっている。顔だけを良く見ると、もしかしたら思い浮かぶかもしれない。

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