ヴェルディとイタリア・オペラに対する個人的な過去の誤解

大昔の若い頃、イタリア・オペラは、ロッシーニヴェルディプッチーニあたりの超有名どころしか聴いた事が無く、またその程度でいいと思って、ロッシーニヴェルディの間のベルカントについては初めからあまり興味を持っていなかった。
それには理由があって、ヴェルディの比較的初期の「イル・トロヴァトーレ」や「椿姫」あたりを聴いてみると、一つの音形を、和音を変えたり、転調したりして、繰り返すパターンが多い。ヴェルディの初期は、当然前時代のイタリア・オペラの形式を踏襲している、と思い込んでいたために、ヴェルディ以前のイタリア・オペラもこんな感じなんだろうな、と思い込んでしまった。
しかし、ドニゼッティベッリーニを改めて聴いてみると、全くそんな事はない。そうなると一体どういう事か、と思い始める。
同一音形の繰り返しは、メロディが限定されるけれども、訴えかけてくるプリミティブなパワーは強く、どちらかとい言えば、古い「歌」の形式である。
ヴェルディは、ドニゼッティベッリーニのようなメロディの天才では無く、どちらかと言えば「音楽によるドラマの構築」の天才である。そのヴェルディが初期に「効果的」と踏んで選んだ形式が、その「同一音形の繰り返し」だったのだろうか。
先入観というのは恐ろしいものだ。おかげで、ベルカントを聴かないである意味30年間無駄にしたかもしれない(笑)

執拗に同じ音形を繰り返す「イル・トロヴァトーレ」の「見よ、恐ろしい炎を」を以前に書いた(こちら)ボニゾッリの映像で(46秒ぐらいから)
自らアンコールをしてしまう部分まで収録(笑)