ムソルグスキー「ホヴァーンシチナ」映画版(ショスタコーヴィチ版)

ムソルグスキー「ホヴァーンシチナ」映画版(ショスタコーヴィチ版)
スヴェトラーノフ指揮 ボリショイ歌劇場管弦楽団(1959)
ホヴァーンスキー公:アレクセイ・クリフチェニヤ
ドシフェイ:マルク・レイゼン

ショスタコーヴィチ版だが、本来3時間以上あるはずが、映画ということで1時間以上のカット編集された楽譜を基に映像化されている。
せっかくの前奏曲「モスクワ川の夜明け」がオペラの時代背景を語るナレーション(節々に社会主義プロパガンダが見え隠れする)が大きくて台無しである。
以前書かなかったが、このオペラ多めの合唱が大変素晴らしくて、そういう意味でも民衆劇なのだが、シャクロヴィートゥイがロシアの行く末を憂うアリアを原作に無い「民衆主導者」なる無名人に歌わせるのも、なんか社会主義プロパガンダの行き過ぎな気がする。
そしてエンディングについては以前書いた。
http://hakuasin.hatenablog.com/entry/2013/10/29/050140
まあ、そこら辺を我慢すれは、当時のソ連一流の歌手達は素晴らしいし、ドシフェイはハイキン盤で印象深いと書いたマルク・レイゼンであるのがうれしい。
また、世界的バレリーナ、マイヤ・プリセツカヤが「ペルシャの女奴隷たちの踊り」のワンシーンに登場し、花を添えるている。

あらすじを見ながら音だけ聞くのと、実際にセリフを見ながら聴くのはやはり大違いで、ホヴァーンスキー公は豪放磊落かつ傲慢、下品、帝位簒奪の異もほのめかす。
民衆の味方のドシフェイも、頑迷な西洋合理主義否定論者である。
何が正義とか悪とか決められない混沌たる世界がこのオペラの姿なのだ。
これだけ面白いオペラなのに、ソフト数が絶対的に足りないのは、社会主義プロパガンダに使われたために、西洋側で取り上げづらかった時期があった、とかの事情でもあったんだろうか。
先日以来、けっこう「ボリス・ゴドゥノフ」を聴いてきたわけだが、今思うとオリジナルの管弦楽版が無いという不利な点はあるが「ホヴァーンシチナ」のほうが作品として上のような気がしてきた。
というのは「ボリス・ゴドゥノフ」はどうも無駄な部分が多い気がするのだ。
ムソルグスキーの初版を聴いた友人たちから、あまりに女声が少ない、との助言で新しく加えられたポーランドのマリーナとそれに絡む偽ドミトリーとの場面は特に、ただだらだらと二人で歌っているだけで、ただ、女声を加えたいためだけのとってつけたような場面であることが、聴きこんでゆくとよくわかってくるのだ。