ブルックナーについて

本日は、この日記をお読みの方で、なんで白亜森はそんなにブルックナーが好きなのか?とお思いの方もいるかもしれないので(いないか)その点を少し書きたい。
ブルックナーは、クラシックにしてクラシックにはあらず、他のクラシック作曲家とは、根本的にどこか違う、唯一無比の存在である。(形式的にベートーヴェン、和声的にワーグナーの影響が強い事は事実であるが)大分前だが、ある高名な音楽評論家が「ブルックナーは、音楽の三大要素(メロディ、ハーモニー、リズム)の、メロディに欠けているから評価しない」といった内容のことを書いていた。大笑いした。そんな理屈は、西洋音楽が発展してきた中で、人間が勝手に言い出したことであって、音楽の本質は、人が感動できるかどうかであって、理屈はあとからついてくるものに過ぎないからだ。しかし、この意見もあながちうそではない。ブルックナーが初期の交響曲をある指揮者に指揮してもらおうと、楽譜を見せたところ「主旋律はどこにあるのか?」と聞かれたという。たしかに、極端な言い方をすれば、彼の音楽は、延々と伴奏のみが続いていると言えなくもない。普通のクラシックは、楽譜をざっとみると、主旋律と、伴奏があり、主旋律は、ときに美しく、ときに激しく、カーブを描いた線のようにつながって見えるものだが、ブルックナーの場合、ある一定の音形が、小節ごとに(音程の全体的な上下、つまり和声の変化はあるものの)繰り返されているようにしか見えない部分が多々ある。楽譜だけ見れば一番味気ない作曲家であると思われる。しかし、これが実際演奏されると、宇宙となり、大自然となり、その巨大さの前の人間の素朴な喜びや哀しみになったりするのである。まさに驚異である。同じ音形が続くと言う意味では、ミニマル系やハウス系、ひいてはニューエイジ系につながる世界である。なので、あきらかに、クラシックでありながらクラシックではないと私は言うのだ。日頃私が、「楽譜どうり素直に」と、口がすっぱくなるほど言っているのも、納得していただけるかと思う。極端な話、ミニマル系が、演奏者の勝手で、テンポをいじったりしたらどうなるか?考えただけでお分かりだろう。こう書くと、ブルックナーが無機質な音楽かと思われるかもしれないが、これがまた全然違うのである。これもまた魅力の部分だ。
最近クラシックモードになった時も、あえてブルックナーは避けていた。彼をいったん聞き始めると、他のクラシックを聴く気がなくなってしまうからだ。それほど、私にとってブルックナーは特別な存在である。彼が、現代に生まれ、電子楽器や、プログラミング技法で音楽を作っていたなら、いったい、どんな音楽が生まれたろうか?と想像するのも楽しい。