伊園家の崩壊

「どんどん橋、落ちた」綾辻行人 収録
ほんとは、京極堂ものこってるし竹本健治も。銀河ヒッチハイク・ガイドも手付かず。あいかわらず、買っては見るものの、その気にならずに、未読がたまる。そんな中、なぜかネットで「ササエさん」で検索をかけたら上記がひっかかった。犯人当て小説集と銘打たれた作品集の中の一編。だれもが知っている国民的家族がモデルである。
民平の妻常(ツネ)が突然商店街で包丁による無差別殺人のあげくに自殺。それからの、あまりにも悲惨な伊園家のありさまに、読後の不快感を訴える人が多いようだ。
作品では、詳しく語られないが、作家の井坂先生の言葉から想像するに、長いこと、停滞した時間の流れであった伊園家の世界が、通常の時間の流れをとりだしたらしい。考えてみよう。何十年も国民的家族として、止まった時間の流れで生きてきた人間が、生身の人間としてのおのれのありように気づいた時、それは発狂もののショックではないだろうか?例えは上手くないが、ジム・キャリーの「トゥルーマン・ショー」の主人公が、おのれのありさまに気づいた時、あの映画で表現されているより、もっとショックだと思う。
常(ツネ)は、殺人を犯す前に「もうたくさんよ!(中略)これ以上嫌だわもう耐えられないわ」と叫んだという。実は、この作品が悲惨なのではなく、この国民的家族や、ち○まるこ、く○よんしんちゃん等、止まった時間の作品を求めている、我々の精神のありようが悲惨なのではないか?(むりくりな理屈だなあ)(爆))
そういえば、江口寿史の4コマだと思うが、「うちの近所にサ○エさんの家がある」「いつまでも年をとらない」「ある日ワカメちゃんの顔を良く見たら」「めじりにしわがびっしりだった」みたいな内容だった。当時は、腹をかかえて笑ったものだ・・・