欧米の詩は朗読されることが前提

欧米の詩で思い出したことがあるが、欧米の詩は実は朗読されることが前提である。これを知ったのは「赤毛のアン」の映画であった。もちろん原作も読んでいるのだが、コンサートに音楽以外に詩の朗読があるというのがぴんとこなかったのだが、実際に映像で見ると、詩を朗々と、ドラマティックに朗読し、ちゃんとプロの朗読者がいるのだから、文化が違うとはいえ日本人にはぴんとこないであろう(日本なら、琵琶法師、浪曲、講談?)何が言いたいかというと、欧米の詩は朗読されることが前提であると言うことは、意味もさることながら、聴いていて心地よい音韻やリズムがまず求められ、その優劣も詩の優劣につながるということなのだ。つまりは、日本語訳で意味をわかっただけでは、その詩を本当に理解したとはいえないということなのだ。だから本当は原詩に触れなければならないし、その言語についてのある程度の知識も必要だと言うことである。難しいものだ。