ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」

フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団(1951)
CDでは、演奏前のフルトヴェングラー入場の足音と拍手、演奏後の拍手入りを長年聴いていた。これはこれとして、記録として大変貴重なものだが、演奏だけを純粋に楽しみたいなと思っていたのも事実で、今回フリッチャイを聴いたのをきっかけに、デジタル・リマスター盤を購入した。
私は全てとは言わないが、アナログ時代から「第9」はけっこういろいろ聴いてきているつもりだが、未だにこれ以上の感動を与えてくれる演奏にお目にかかったことが無い。人によっては録音の古さやアンサンブルの乱れや楽員の失敗などをあげ、過去の「名盤」という評価を皆が鵜呑みにして今でも「名盤」扱いされているだけだ、という人もいる。しかしそれは本末転倒である。音楽は人を感動させるためにあるのであって、それが最高の感動であるならその他のことは意味が無いのである。いくら録音が新しくアンサンブルの乱れもなく完璧な演奏であっても感動を呼ばなければその演奏のどこに価値があるのだろうか。
では、その感動はどこから来るのかというと「音楽が生きている」ということなのである。フルトヴェングラーの演奏の特色の一つに、クレッシェンド、ディミヌエンド、アッチェレランド、リタルダンドの巧みさが上げられる。時には楽譜の指示を越えている事もある。(そこらへんが非難の的となる場合もある)しかし、これがベートーヴェンの楽想にぴったりくるのである。そして音楽が息づく→「音楽が生きている」ということになる。(もちろん、生きた音楽を作り出す方法はこれ一つではないし、指揮者によって違うが)先程の例だが、完璧な演奏でも音楽が死んでいて形骸になっていたら、何にもならないのである。
さて、このデジタル・リマスター盤であるが、確かに音は良くなって、各楽器がちゃんと分離して聴こえる。今まで判別がつかなかった管の音が判別できたりして、かなり新鮮である。しかし勝手な言い草だが、もう20年以上、各楽器が混じり合ってくぐもった響きとなり、それが迫って来る迫力になれた耳には、一抹の寂しさを禁じえない。もちろん、これから聴く人には、いい音の盤で聴いて欲しいのだけれど。