ゼロ・ビートの再発見

大昔にピアノの調律についての本を読んで目から鱗だった事を思いだした。タイトルは忘れてしまったがたぶん「ゼロ・ビートの再発見」ではなかったか。
つまりは、我々は「平均律」が当たり前の正しい調律のように思っているが、実は、便宜上考えられたもので最善のものとは限らないと言う事。
ここで一から簡単に説明するが、我々が自然に調和して感じられる音階、和音を(半音を含めて)まず決めたとしよう。仮にハ長調(ピアノで言うところの黒鍵をつかわない)とする。ここで仮に半音あげて嬰ハ長調の音階なり和音を引くと、実は調和していないのである。平均律とは、どの調性でも一番調和したものに近くするために、一音一音微妙に音の高さをかえる事なのである。よって、平均律で調整されたピアノは実は厳密に言うと調和と言う点では正しい音ではないのである。そのかわり、どの調性で弾いても、同じ響きがする。
それに対して、平均律以前の「古典調律」と言われるものは、フラットやシャープが少ないほど明るく調和した響きになり、フラットやシャープが増えれば和音は不調和に近づく分緊張感を増し、メロディは際立ってくるそうである。(実際はヘ長調が基準らしい)また曲中の転調の効果が、目覚しいものになるであろう事は容易に想像がつく。
こうなると、今までの作曲家が曲を書く時に、なぜその調性を選んだのか、が明らかになってくる。バッハは「平均律クラビーア曲集」を書いたが、実は「平均律」は「程よく調律された」の誤訳で「古典調律」を想定して書いているそうだ。「インヴェンションとシンフォニア」もそうであるが、お弾きになった事がある方、もしくはお聴きになった事がある方は、調性によって、曲調にある種の傾向があることがおわかりになるはずだ。
また、バイオリンなど、フレットが無い楽器は、自分たちの指でその調性にあった音階の音を調整して出せるが、ピアノ、管楽器やギターなどはそれが出来ない。そういう楽器がいっしょに演奏した時、なんか微妙に音がづれていないか?と思った経験がおありの方はいないだろうか。
生ギターを調弦して、さて弾いてみるとなんか微妙に違う、自分の耳で調和したように調弦してみて、OKだと思うと、やはり別の部分でづれが出る。こんな経験がおありの方はいないだろうか。そこが実は「平均律」の落とし穴なのだ。
例えば、正しく調弦したはずの生ギターで、解放弦を使ったCを弾いた時。一番高い「ミ」の音程が高いのでは?と感じた事がある方はおられないだろうか。
また、ピアノを伴奏にして独唱なり合唱なりをした事がある方で、きれいな調和したメロディを歌っているはずなのに、ピアノと若干づれていると感じた事がある方がおられないだろうか。(人声はバイオリンと同じで、自分で調和した音程を調節して出している)
本来は、曲の調性が変わる毎に調律しなおすのが正しかったようだが、現代ではそれは難しい。それがゆえの便宜として「平均律」というものが考え出され、拡まっていったのである。(「平均律」が使用されるようになったのは意外と最近で19世紀半ばらしい、マーラーが嘆いたという話が伝わっている)
この本を読んだ当時は、内田光子モーツァルトを「古典調律」で演奏していた。エアチェックして聴いていたが、また聴いてみたいものだ。
最後に孫引きになるが、ヒンデミットの言葉。
平均律は実に調法なものであって、我々は平均律を抜きにした世界などは到底考えられないが、しかし平均律を用いることによってこうむる恩恵は、人為的なものであり、それはちょうど貨幣制度の便利さと同じである。我々は金さえあれば何でも買えるが、金は我々の空腹を満たすことがない。」
平均律は調性の凡ての領域を我々に開いてくれるし、また音どうしの融通が利く点でも便利この上無いが、しかし平均律は我々が生れつき持っている純粋な和声に対する欲求を満足させてくれない。」