P・D・ジェイムズとセイヤーズとル=グウィン

P・D・ジェイムズセイヤーズの影響を受けているというのがどういうことかわかってきた。
実はP・D・ジェイムズは、読みたいと思ってけっこう買ってはいるのだが、余りにもヘビー(だと想像してしまい)おいそれと手が出ないで今に至るので、えらそうな事は言えない。自信をもって読んだと言えるのは例のヒット作「女には向かない職業」や続編「皮膚の下の頭蓋骨」と非ミステリーの「罪なき血」ぐらいなのだ。ダルグリッシュダルビッシュじゃないよ)シリーズなど何冊か手元にあるし読みたいんだが。
通常ミステリーというのは、殺人があり謎があり、その解決があり、それにより物語が構築される。しかし、この人の作品はまず物語(というか人間)ありきで、たまたまそれに殺人があり謎がありその解明があるという形で、あくまでミステリー的要素は物語に従属している気がする。(と最近思うようになった)で、実はそれこそセイヤーズの作風であって、読後の印象がよく似ているのだ。(P・DのDって、ドロシーなんだと!)さて、こうなるとセイヤーズ読破のあとは、ジェイムズ再挑戦かな、いやコリンズの「月長石」の山を越えねば。
またまた思うのだけれど、ジェイムズの描き出す犯罪の裏にはどうも西洋世界にはびこってしまった(間違った)キリスト教的世界観の影響があるように思う。彼女はそれを抉り出すために各作品を書いているのではないかとう節がある。(本人は意識していないかもしれない。西洋人にとってはキリスト教的世界観はあまりにも当たり前のように潜在意識に刻み付けられているだろうから)しかし、提示はするものの解決策は出さない。そこらへんがキリスト教的世界観を突き抜けてしまったル=グウィンとは決定的に違うところだ。