ネメシス(1989)

アイザック・アシモフ
久々にアシモフの「ファウンデーション+ロボット」シリーズを堪能した後、晩年の作品も久々に読む。これはハードカバー時代にも読んだ。アシモフが「ファウンデーションの彼方へ」(1982)で久々にSF界に復帰し、「ファウンデーション・シリーズ」と「ロボット・シリーズ」の融合もめどがついた時期に発表されたノン・シリーズ作品である(ただし、次に発表された「ファウンデーションの誕生」(1993)の中で、この作品の内容に触れられているので、強引ではあるが「ファウンデーション+ロボット」シリーズに組み込まれた形になっている)
さて、発表当初から現在に至るまで、この作品は地味だと言われてきた。現在でもネット上で見かける書評は、SFやアシモフに初めて接する人々からは概ね好評だが、元からのSFファンやアシモフ・ファンからは、まあ凡作扱いである。
その気持ちもわからなくないのは、けっこう長い作品なのだが、アシモフの他の長編に比べて、目だった大きな事件がおきないまま(ハードSF的な記述が多く)淡々と進んで行くせいかもしれない。
しかし、SFファンや出版社からの、やいのやいのの催促に答える形で再開した「ファウンデーション・シリーズ」もめどがつき、彼としてはそういったしがらみから解放されて、読者サービスをあまり考えなくて良い作品をのびのび書きたかったのかもしれない。
また、この作品のテーマの一つは「ファウンデーションの誕生」で示唆された「ガイア」論を、さらに一歩すすめた形になっている。つまりは「星」という存在が有する「意識」の問題である。(厳密には星に偏在する単細胞生物の集合体としての意識)
アシモフの作品には、いわゆるヒューマン・タイプの知的生物しか登場しない場合が非常に多い。私も若い頃はそれが不満だったが、そもそもは、アスタウンディング誌のキャンベル編集長が「異星人=有色人種、地球人=白色人種の勧善懲悪」パターンをSF作家に強要したため、それを避ける意図があったという事を後から知り、「アシモフも苦労したのだな」と思ったものだ。
そういう意味でも(異星人、異次元人と言う概念は「神々自身」(1972)で登場するが)最晩年の作品に、「意識を持った星」というテーマをアシモフが選んだという事は感慨深いものがある。
「大きな事件がおきないまま淡々と進む」と書いたが、二つの舞台、二つの時系列で進む物語は、静かなサスペンス性もあり、他のアシモフ作品的なものを期待せずに、じっくり読む分には決して凡作とはいえないと思う。(結末を読むと淡々と進むストーリーの中にちゃんと伏線があるのだ)
そうそう、主人公の女の子の魅力が無いとか、かわいげが無い等と意見もみかけるが、このストーリー、そして主人公の特殊能力からすれば、ある程度必然の性格づけであり、個人的には充分魅力的だと思う。自分好みの性格の主人公しか受け付けないってのは読書人としてどうなんだろう。