カラヤン

以下は、以前に書いていてブログに載せる決心がつかなかったのだが、上記機会に載せようと思った文章。

なぜ私はカラヤンが嫌いか、実は何回かこの日記でも書こうとして、頭の中でいろいろと下書きを考えてはやめてきていた。いろいろ理屈をこねてみても、結局は好みの問題ということに落ち着くのではないかという危惧があったからだ。
しかし、やはり何か書かなくては、という気になったので、書いてみる。
要は、カラヤンはどんな曲でも、その作曲家の個性を無視した、何をやっているかわからないけれど耳障りのいい、そして聞いた後には何も残らない、つまりはカラヤン流の「単なる音響」にしてしまうのだ。つまり私に言わせば、カラヤンの作り出しているのは「音楽」ではなく「音響」である。
フルトヴェングラークナッパーツブッシュも個性が強く、独自の音作りをしているが、その作曲家がわからなくなるような音作りはしない。
しかし、それのどこが悪いのだ?と言われたらもうだまるしかない。そういうものが好きな人がいるのは事実だからだ(そうでなければ、あれだけカラヤンのレコードは売れなかったろう)
フルトヴェングラーに代表される旧時代の音楽作りに対抗する、ラジオ、映画、テレビの発達の流れに乗った、当時における「現代的」な音作りとしての、登場価値は、否定できない)
(結局は好みの問題ということになる)
しかし、例えば「ばらの騎士」のフィナーレ三重唱は、クライマックスも素晴らしいが、もう一つ私が好きな箇所がある。
オクタヴィアンが「マリー・テレーズ」と歌い始めると、元帥夫人のソロが始まる。途中から一気に音程が下がりそこからゆっくりと上昇し、その最後で残りの二人が歌い始め3人のメロディの絡み合いが始まる。
ここの上昇部分と3人が絡み合い始めるスリリングな箇所が、私の大のお気に入りなのだ。
はじめてカラヤンのフィルハーモニア盤を聴いた時、ああ、やっぱり何をやっているかわからんなあと思いつつも、上記の箇所だけは楽しみにずっと聴いていたのに、気が付いたらその箇所を過ぎていて愕然とした。もう一度聴きなおすと、まあ、なんとカラヤンはここの箇所を味もそっけもなく、まるで何の意味も無いかのように指揮をしていることだろう。
もともと嫌いだったカラヤンだったが、これで嫌いをとおりこしてあきれてしまった。
先日見た映像でも、やはり同じだった。これは映像があるからそちらを楽しめるのでまだましだが。
そういえばどこかで読んだが、カラヤンの音作りは、低音部ほど長めに音をとり、高音部に行くにしたがって短くしてゆくそうだ。それにより、メロディーラインが、隙間の無い音の絨毯の上に乗って流れていくように聴こえるとか。
なるほど!それにより、作曲家の個性を殺すのだな(笑)