「日出ずる處の天子」歴史の常識と思われている事への疑問

以前から、徳川家康長男自決の原因とか、綱吉の生類憐みの令とか、赤穂事件とか、歴史の常識と思われている事への疑問を、このブログで、たま〜に発表してきたのであるが
聖徳太子が、隋の皇帝に対し
「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」
という国書を送った、というのも、まるで真実のように人口に膾炙しているのが、どうも理解できない。(あの井沢元彦でさえ、既成事実のように語っていたのはがっかりだった)

第1に、この記述は「隋書 東夷伝」にはあるが、日本書紀をはじめ、日本のいかなる歴史書にも記述されていない。

第2に、この国書を送ったのは、「姓は阿毎、字は多利思比」という王であるが、当時の日本は推古天皇(女帝)の時代であり、聖徳太子は摂政にすぎない。

これに対し、対外的に女帝ではかっこうがつかないから、摂政の聖徳太子倭王という立場で送ったのだ、とか理屈をつけるわけだが、もっと素直に読めばいいのに、と思う。

つまり、
「この書を送ったのは、推古天皇の「大和政権」では無い」
とすれば、妙な理屈や言い訳が、全く必要なくなるのだ。
(下記にあるように、隋書には小野妹子の名が無いのも、証拠になりそうだ)

ところが、この時代「日本は大和政権により統一されている」という先入観があるために、妙な理屈を考えなければならないのだ。

日本書紀、というのは「政府により都合よく書かれている歴史書」であるから、九州あたりの独立政権が送った遣隋使の事績を、大和政権の事績として取り込んでいる可能性は高いのである。

なお、ウィキペディアの「聖徳太子」でも

内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」に記述された倭王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と推定している

とし、あくまで「推定」であるとしている。

参考
(ウィキペディアによる)
遣使の『日本書紀』と『隋書』の主な違い
第一回遣隋使は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ。
ここでは中国史に合わせて遣隋使として紹介しているが、『日本書紀』では「隋」ではなく「大唐國」に遣使を派遣したとある。
日本書紀』では裴世清、『隋書』では編纂された時期が唐太宗の時期であったので、太宗の諱・世民を避諱して裴清となっている。
小野妹子の返書紛失事件は『日本書紀』にはあるが『隋書』にはない(『隋書』には小野妹子の名前自体が出てこない)。
『隋書』では竹斯國と秦王國の国名が出てくるが大和の国に当たる国名は記されていない。しかし、「都於邪靡堆」とあることから、都は「邪靡堆」にあったと推察される。