バラバは極悪犯罪人か?

ある人のブログを見て、ちょっとびっくりした事がある。
その人はバッハの「マタイ受難曲」の感想を書いておられるのだが。
 
イエスがユダの裏切りによりつかまって裁判を受け磔の刑を宣告されるが
ローマのユダヤ総督は、イエスを死刑にするほどの罪とは思えずに
(ローマ国教以後に脚色された記述と思われる)
「過越し祭」に慣例になっている囚人の恩赦により、イエスを救おうとして
民衆に向かって、やはり同じ時に磔の刑を宣告されたバラバとイエス
どちらを助けるべきか問うのだが、民衆は「バラバを!」と叫ぶくだりがある。
 
このシーンについて、この方は
冷静に考えれば極悪犯罪人のバラバを助けずにイエスを救うのが当然であって、
群集心理にあおられた民衆が正しい判断ができない恐ろしさ、
を説いておられる。
 
こういう人を、結果を先に知っているために、当時の状況を正確に判断できない人
というのであって、そんな人がいかに多い事だろう。
 
その方はクリスチャンではない、と書いておられるが、
どうも現代の「愛の宗教(?)たるキリスト教の教祖:イエス」
という刷り込みがあるようだ。
 
マタイによる福音書によれは、バラバは単に「評判の囚人」
(英語直訳では「著名な囚人」)となっているが
(最も成立が古いと言われる)マルコによる福音書によれは、
バラバの罪は「暴動による殺人」である。
 
当時のユダヤは(ヘロデ王というワンクッションがあるが)
ローマの支配下にある。
そういうユダヤにおける「暴動」とは、
侵略者、支配者であるローマに対する暴動以外に何が考えられるだろう
(ヘロデ王に対する暴動でも意味は同じだ)
ならば、バラバはユダヤの民衆にとっては英雄である。
 
それに対してイエスは、少なくとも当時のユダヤ教を冒涜する者と見られていた。
 
「祭司長たちは、バラバの方をゆるしてもらうように、群衆を煽動した」
という記述があるが、
上記の理由から、仮に扇動されなかったとしても
民衆が恩赦を願うのはバラバであって当然であろうと思う。

群集心理にあおられたわけでもなく
(当時のユダヤ人である彼らにとって)
正しい判断ができなかったわけでもないのである。
 
ついでに言えば、
 
イエスは自分の磔(と復活)を予期しており
それが必要なことであると判断しており
キリスト教の成立には不可欠な事であるがゆえに
 
ユダの裏切りも、民衆が「バラバ!」と叫んだ事も
キリスト教にとって、正しい事だったのだ。
だったら、どうして彼らを責めるのだろう。
 
ちなみに、マグダラのマリアは娼婦だ、と漠然と思っている人が多いと思うが、
聖書中にそのような記述は一切ない。
 
バラバが極悪犯罪人である、という思い込みが
当時のユダヤの民衆を愚かであるとするための
後世のミスディレクションの結果であると同様に
男性使徒を持ちあげ、女性の使徒を蔑むための、
後世のミスディレクションの結果である。

ちなみに例の人も「聖母マリア」と「マグダラのマリア」を
対立的に捉えているようなので、
マグダラのマリアは娼婦だと思い込んでいるようだ。