間違った「儒教の理想」

私は「論語」における孔子の人間的エピソードが好きである。
しかし「儒教」になると、いい面も悪い面も出てくる。
孔子は「礼」とは「仁」を形に表したもの「仁」は「忠恕」すなわち「真心と思いやり」だ、と説いた。つまりは「礼」の本質は「相手を不快にさせない」事が根本になっている。
しかし「礼儀」となると、今度は序列が出てくる。いわゆる「士農工商」である。(ご存知の方も多いと思うが、ここでいう「士」は「武士」ではなく「官吏」の事)王侯貴族が不快にならぬように、儀式ではその下位の人々が序列通りに扱われる、ということになる。
つまりは、差別の発生源になってしまう。
孔子や孟子の教えには「君子」と「小人」の例えがよく出てくる。「君子」とは儒教における理想的な人間ということだが、どうも高級官僚であることが前提に思える。
孟子は「君子は動物が殺されるのがしのびないので、その動物を殺して料理する台所を遠ざけ、殺される所を見たり聞いたりしないようにするものだ」という「かわいそうならそもそも食うなよ」というつっこみをいれたくなるような言葉を残しているが、これも料理人や召使いがいる前提の話である。
儒教の間違った理想は「労働はすべて自分以外のものにまかせて、自分は何もしないで豊かに暮らす」という事である。なので「労働」というものに対する「蔑視」が起こる。
そういう間違った理想がしみ込んでいるのが某国である(やっと本題)
(なので、某国には「老舗」や職人の「匠」が無い。卑しい事を何代も続けることは恥だからだ)
某国が起こしている問題は、ほとんどが上記を理解すれば納得していただけると思う。
間違った歴史解釈をして「謝罪せよ、賠償せよ」というのは「何もせずに金が欲しい」からである。
技術開発は卑しい事だから自分たちはせずに、他国の開発技術を取り入れて、それを自国の開発だと偽る。
いろいろなものの起源が自分たちだ、といっているのは、現在の自分たちが何もしなくても優越感を味わいたいからである。
事前に調査もせずに他国の山に登って遭難すれば、その他国が悪い、というのも、自分たちは何もせずに、その他国が面倒を見るのが当たり前だ、と言っているわけである。

すべてを「他」のせいにする、ということは、自分たちが「自分では何もできないでくのぼうだ」と言っているのと同じである。しかしそれが「理想」なのだから性質(たち)が悪い。
日本は、何でも日本流にして取り入れるので、儒教が入ってきてもこのような弊害は無かった。某国もそろそろ自分たちで気付かないと、それこそ亡国になってしまう。