レーナード・スキナード「ワン・モア・フロム・ザ・ロード」(1976)と人間の運命

レーナード・スキナードのライブが欲しくて購入、このアルバムがライブの傑作であることは周知の事実なので、今回は別方面の話。
日本盤の解説と海外ウィキペディアを参考に記述していく。

まずは、レーナード・スキナードの売りであるトリプル・リードの一翼を担うエド・キングが1975年に脱退(この経緯については後述)
トリプル・リードにこだわったバンドは新しいギタリストを模索、何人かの候補が出るも決まらす、あるギタリストに仮決定するが、そのギタリストは他の歌手のバッキングのスケジュールが残っており、多少の待ち状態となる。
そんな中、レーナード・スキナードのバック・ボーカル・グループ「ホンケッツ」の一員キャシー・ゲインズが自分の故郷のそばでレーナード・スキナードのライブがある時に、地元でバンドをやっていた弟のスティーヴ・ゲインズを「ギターを持ってこい」と呼び出し、バンドのメンバーには弟とセッションをしてれるように頼みこむ。
最初は信用メンバーもセッションを始めるととんでもなくしっくり来ることがわかって即加入となった。
そして録音されたのがこの「ワン・モア・フロム・ザ・ロード」である。
ここまではいいのだが、こののちスティーヴ・ゲインズが参加したスタジオアルバムが1枚製作されたあと、例の飛行機事故が起きる。
そしてスティーヴ・ゲインズは姉のキャシーと共に亡くなってしまうのだった。

ティーヴ・ゲインズは、姉がレーナード・スキナードのバック・ボーカルをしていなかったら、故郷近くでライブがなかったら、姉からの誘いが無かったら、彼はロック・スターにはなれなかったかもしれないが若くして死ぬことはなかったのかもしれない。どちらが彼にとって良かったのだろう。
また、脱退した事により結果的に命拾いをした形になったエド・キングは、以前書いたが 1stで急遽ベースを担当したり、様々な曲の作曲にも参加してかなり貢献度が高いのだが、非南部出身者ということで他のメンバーと気質的に合わないところがあり、メンバーとのトラブルでかなりストレスをためていたようで、最後にはライブ中にギターの弦が切れた瞬間に脱退を決意したのだそう。
これはもしかしたら、弦が切れる事が彼に死を回避させる啓示になったのでは?というのは考えすぎだろうか。