信康事件

突然、戦国時代の話。今まで漠然と考えていたことを書く。
今では当たり前のように、家康の長男信康は、織田信長に武田家内通の疑いをかけられ母築山ともども家康が泣く泣く処刑(自刃)させたといわれ、そういう前提で、ほとんどの小説や、マンガが書かれている。
しかし、
1.歴史はのちの為政者が書く(都合の悪い事は、以前に死んだものにすべて押し付ける)
2.戦国時代の親子相克は常識(武田信玄の父親追放、武田信玄の息子による信玄追放未遂、伊達政宗の父親見殺しetc)
3.元信康家臣(後見人)の石川数正の豊臣家への謎の出奔
等などから、どうも、岡崎城主信康の家臣に家康追放の動きがあり、それを察知した家康側が、先手を打って信長の権威を利用して信康を処刑した、と見るのが正しいような気がする。つまり、酒井忠次は信長の下へ、ろくにできもしなかった信康の弁明に行ったのではなく、信康処刑の許可を信長に得るために行き、帰ってきては信長が処刑を命令したと言い張った、というのが真相では無いだろうか。もちろん家康の意を受けてだが。家康が自分の子の中でも優秀な人間を疎んじたということはよく知られている。結城秀康(次男)松平忠輝(六男)さすがに幼少だった御三家(九〜十一男)は疎んじる暇が無かったろうが。
なぜこんなことを突然書いたかというと、上記の1.の理由で、当時悪いことはすべて信長がやった、信長は悪人だと歴史がゆがめられているのではないかと、日頃私は思っているのだという話。