はごろも自然遊園地

八戸の地図を見ると、八戸の海岸沿いの道、通称「うみねこライン」を南下してゆくと、八戸線金浜駅」のそばに「はごろも自然遊園地」がある。
以前から気になっていたが、今は廃墟状態のようだ。(こちら)(こちら
地元出身の会社の同僚には、幼少時遊んだことがあるという人もいた。
ということで、朝ドライブででかけてみたのだが・・・・・現在更地にしている真っ最中!廃墟でさえ無い(涙)
かわりに近くで撮った朝焼けの写真。
hakuasin2009-10-17

プッチーニ「蝶々夫人」

オーレン指揮 アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団(2004)
演出:フランコ・ゼッフィレッリ
衣装:ワダ・エミ
振付:田口道子
蝶々夫人:フィオレンツァ・チェドリンス
スズキ:フランチェスカ・フランチ
ピンカートン:マルチェッロ・ジョルダーニ
アゴスティーニ・オペラ第4弾、野外劇場での「蝶々夫人」ゼッフィレッリの野外での演出って珍しいのではないか。
先日は「スズキのためだけには買えないな」などと書いておきながら(こちら)買ってしまった(自爆)
この人についてはあまり情報が無いのだが、1985年デビューということなので、当時は30代といったところか、もっといろいろと出てきてもいい気がする。所作がほとんど日本人なのは、よほど仕込まれたのだな。(蝶々夫人もそのぐらい徹底してほしかったが)
さて、以前にも書いたが、このオペラは日本を舞台にしているとはいえ、その実態はヨーロッパのエキゾチズム的夢の国の話である。なので、思いっきり勘違いの演出をされたほうが、かえって夢の国らしくて受け入れやすい。もしくは、それこそすべて完璧に日本的にするかである。
この舞台のように中途半端な完成度で(勿論がんばっているのは伝わるが)日本的にすると、かえって日本人は違和感が強まる。
以前すべてを日本人が担当した「蝶々夫人」をTVで見たことがあった。その時は主役が好みで無いので気がつかなかったが、思い返せば主役以外はまったく違和感がなかった。その理由を今回気づいたのだが、つまりは舞台でも衣装でも髪型でも、実にあっさりしていたのだ。「日本風」なものをこってりと盛りだくさんにすれば、それが「日本風」になるというのが(進歩したとはいえ)欧米のまだまだ至らぬ日本観である、というのがしみじみわかった。
本当に違和感無く日本風にするには、たとえコンテンツが日本的でなくても、あっさりと濁らぬようにすれば良いのである。
やはり野外の舞台は歌手が無意識のうちに声を張ってしまうらしく、たぶんこれが彼らの本領では無いと思いたいところ。
蝶々夫人は私の苦手な「太い」ソプラノである(声の話)2幕1場はなぜか根っころがっていてマグロだった。

そうそう、2幕2場は蝶々夫人だけ起きていなければならないのに寝ていた。この演出は疑問。
ピンカートンは声はいいにしても、太ったおっさんである。同じ太っていてもパヴァロッティは「おっさん」を感じさせなかったのはやはりスターだったのだなと改めて思う。
初めて「蝶々夫人」を見る人には、蝶々夫人の海外演出の限界を思い知るために充分お勧めできる。

日本と欧米の感受性の違い

改めて思うのが日本と欧米の文化、というより感受性の違いである。
欧米は「目に見えるものが存在し、目に見えないものは存在しない」という文化である。
日本では世界でも珍しい「歌舞伎の黒子」というものが存在する。現実に舞台の上に存在しても、見るほうは「存在しないもの」として見るわけで、逆もまたしかり、表現しないもの、言葉にしないものの奥に、本当の存在があることを感受できる民族なのだ。