クーベリックの ベルリオーズ 歌劇「トロイアの人々」顛末記

ベルリオーズ 歌劇「トロイアの人々」短縮版の抜粋盤(イタリア語歌唱)
クーベリック指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団 合唱団(1960)
マリオ・デル・モナコ(T)
ネル・ランキン(S)
ジュリエッタ・シミオナート(Ms)
リーノ・プリージ(Br)
アドリアーナ・ラッツァリーニ(A)
ニコラ・ザッカーリア(Bs)

クーベリックの「トロイアの人々」は1957年のロイヤル・オペラ・ハウス盤(短縮版)(ドイツ語歌唱)を入手しようと思って某通販サイトで'Les Troyens' 'Kubelik'で検索したところ、ハイライト盤のCDが1件表示された。全曲盤は入手できないのかしら、とりあえずこれを買ってみよう、と注文したところ、1960年のミラノ・スカラ座盤(イタリア語歌唱)のハイライト盤だった!
え?それならミラノ・スカラ座盤も全曲盤があるはずなのに、と思ったが、ふと気が付いた。イタリア語盤なら題名もイタリア語なのか?で、'I Troiani'で検索したら表示された。(ハイライト盤はフランス語イタリア語両方のタイトルがついていたので'Les Troyens'でも表示されたようだ)
そうなると、ロイヤル・オペラ・ハウス盤はイギリスのオケなので英語なのか?となって'The Trojan'で検索すると表示されたのである(ちなみに'Berlioz' 'Kubelik'だと表示されない)
ご覧のとおりの豪華キャストなのでハイライト盤は当然歌唱中心になるが(特にデル・モナコは圧倒的でアリア後の拍手が鳴りやまない)それでもいかにもクーベリックらしいロマンティシズムあふれる演奏だという事がわかる。そうなるとやはり歌無しの部分も聞きたくなるので、これは両方とも全曲盤も買わねばならんではないか!特にミラノ・スカラ座盤の全曲盤だと、コッソットやデ・パルマ、カッシネッリ等々の声も聴けるとなれば、なおさらだ。
ちなみにモノラル録音だが、発掘音源系にしては極上の音質。

デイヴィスの ベルリオーズ 歌劇「トロイアの人々」旧盤

ベルリオーズ 歌劇「トロイアの人々」
コリン・デイヴィス指揮 コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団 合唱団(1969)
ジョン・ヴィッカーズ(T)
ジョセフィン・ヴィージー(Ms)
ベリット・リンドホルム(S)
ピーター・グロッソプ(Br)
ロジェ・ソワイエ(BsBr)
イアン・パートリッジ(T)
ヘザー・ベッグ(S)

ベルリオーズの「トロイアの人々」の世界初の全曲録音である。
ここまでベルリオーズにはまると思っていなかった頃は、完全版のデュトワ盤があればいいと思っていたが、今では、なるべく多く「トロイアの人々」を聴きたいと思ってしまった。そうなると、このデイヴィス盤ははずせない。
完全版というのは、第1幕のいわゆる「パントマイムの場」の後に「シノンの場」があるかないかなのだが、これがあるとストーリーに矛盾が無くなるらしいが、時間的には数分なので、音楽的にはあまり影響がない(デイヴィスは新盤でもここを演奏していない)
しかし、このデイヴィス盤以降、1993年のデュトワ盤まで全曲盤がひとつもない、というのはやはり異常である。それ以降も映像を別としてこの2つのみがオフィシャルの全曲盤という期間が結構続いたのだ。そしてデイヴィスの新盤(2000年)以降徐々に増えてゆく。

さて、演奏であるが、ネット上でデュトワの色彩美、デイヴィスの構築美という対比の仕方をしているのを見かけたが、言い得て妙である。緻密な美しさを求めるならデュトワ、骨太なドラマティックさを求めるならデイヴィスということになろうか。デュトワ盤はさくさく聴ける、と書いたが、デイヴィス盤はわくわくしながら聴ける。ただし若干せわしなくなっている部分があるのが残念。例えば第4幕冒頭の有名曲「王の狩りと嵐」など、デュトワ盤の落ち着いた演奏の方が好ましい。
歌手陣ではアエネアスのジョン・ヴィッカーズはさすがに素晴らしいが、若干荒っぽくて品が無くなってしまった感あり。
ディドのメゾ、ジョセフィン・ヴィージーが伸びやかな声で素晴らしい。手元にある録音はクレンペラー魔笛で3人の童子、カラヤンワルキューレでフリッカがあるが、その時は良さがわからなかったなあ。あと、ディドの妹アンナのヘザー・ベッグもいい。
デュトワ盤と比べてつくづく思うのは、90年代以降はやはりオペラ歌手はスマートになったがスケールは小さくなってしまったなあ、という事。

レヴァインのニュース

優れた芸術家が、必ずしも優れた人間ではない。
あのフルトヴェングラーだってクナッパーツブッシュだって、カラヤンだって、聖人君子というわけではなかった。
しかし、今回のレヴァインのニュースは、なんだかなあ・・・・とため息をつくばかり。
元々そんなに好きな指揮者ではなかったが、なんとなく感じていたからなんだろうか。

カズレーザー グレッグ・イーガン そして最近の読書事情

先日のテレビのどっきり企画でカズレーザーグレッグ・イーガンの「エターナル・フレイム」が出てきた。
グレッグ・イーガンは、その「エターナル・フレイム」を含む最新邦訳の「直交三部作」は別として、すでに他の数冊は手元にあるが未だに読んでない。
歳のせいかもしれないが、最近興味を持って購入した小説が、買ったはいいもののどうしても読み始めることができなくてたまってゆくことが多くなった。
映画「メッセンジャー」の原作「あなたの人生の物語」(テッド・チャン)も、映画化されるずっと前に購入したのに未読である。
そのわりに学術書的なものは今でもたくさん読んでいる。
まさか、私のこれからの人生に、もう小説は不要だ、という事ではないだろうな・・・

某国のガールズ・グループと後宮制度

少し前に、娘が某国のガールズ・グループのダンスを見て(正確にどう言ったかは覚えていないが)あまりにも性的な衣装や動きについて「なぜ?」と疑問を呈した事があった。娘ぐらいの年頃にとってはかなり不快だったようだ。これもある意味セクハラである。
その時はうまく答えられなかった(というか、あまり過激な言い方をしたくなかった)のだが、これは民族性や今までの歴史的背景があるように思う。
某国とその某国に多大な影響を及ぼした某大国では、歴代皇帝には大規模な後宮制度があり、例えば奴婢的な踊り子であろうとも、皇帝の目にとまれば、正妃は無理にしても一躍「妃」「夫人」といった位に登れるし、世継ぎを生んだとなれば国をも支配できる可能性がある。となると踊り子たちは皇帝の目にとまるよう見た目も踊りも、性的にアピールできるよう多大な努力を払った事だろう。
翻ってわが国では、あまり天皇や将軍が踊り子を多数はべらせて宴会、等というイメージが(全くなかったわけでは無かろうが)ほとんどない。
それに代わって存在するのが源氏物語の紫の上のように、少女を自分の好みの女性に育てる、といったある種ロリコン的な価値観である。(これもあまり誉められたものではないが)
某国では日本のアイドル・グループと自国のガールズ・グループのダンスのレベルを比較してディスったりする事があるが、そもそも求めいているものが日本と某国では女性芸能人に求めるものが違うのだから比べる事自体に無理がある。
日本では、超美人でなくても、ダンスがうまくなくても、身近にいてくれるような女性を求め、某国ではとにかく超美人でセクシーさを求める。民族性や歴史的背景の違いだ、というのはこういう事で、どちらがどうとも言えないはずであるが、某国の方はある意味「女性の物化」として女性差別、セクハラに属する価値観で、今ではもう既に時代遅れだと思われる。それが証拠に某国では現代では考えられない女性差別が残っているらしい。(だからこそ、ああいうガールズ・グループが成立しているとも言えるが)

神代文字の話

これから書くことは現代の学術的なものに基づいているので、もしかしたら後年覆るかも知れない事をお断りしておく。
私が若かりし頃、古史古伝ブームというのがあって、けっこうはまったものだった。
古史古伝のいくつかは、いわゆる神代文字というもので書かれていたが、私は当時、まずこれは眉唾ものである、と思っていた。
というのは、まず神代文字の多くは母音と子音の組合せで、現代の50音図にあてはまるものが多いのだが、奈良時代以前には母音が5つ以上あった、と言われているからだ。
しかし、その後勝手な考察で、母音が5つ以上あった時代は、渡来人が勢力を持ち(藤原氏もそうだと勝手に思っている)そのせいで、支配階級に渡来人の発音が影響して母音が増え、それがまた沈静化して5音にもどったのではないか、と思って、やはり神代文字は正しかったのかなあ、等と思った時期もあった。
しかし今度は、50音図成立がいつなのか、と思い始めた。つまり、日本語を母音と子音にわけるという発想がなければ50音図も無いし、神代文字もあり得ないわけだ。
で、調べてみると、日本における音韻学というのは、インド、中国経由の悉曇学によって始まったらしい。そして日本語の五十音図の始まりは平安時代の明覚という僧が作成したという。
つまり、それ以前の日本語において「あかさたな、いきしちに」等とならべて唱える事はありえない、という事になる。
そうなると、やはり神代文字は後世の作と言う事になる。内容的には正しい事も含まれているのかもしれないが「あかさたな、いきしちに」的な歌となると、古代の人が詠んだ、というのは無理があると思う。