フリートウッド・マックの「英吉利の薔薇」の話

ブルース・ロック時代のフリートウッド・マックの名盤として人口に膾炙しているアルバムで、サンタナで有名になった「ブラック・マジック・ウーマン」のオリジナルが収録されていることで有名で、若い頃は渋谷陽一の「レコード・ブック」にも載っていたので、フリートウッド・マックのCDを買う時には、「ファンタスティック・マック」「噂」そしてボブ・ウェルチ時代の「枯木」とともに購入していた。
たまたまウィキペディアを見ていたら、ディスコグラフィーの「スタジオ・アルバム」の項にこのアルバムが無い。「えー!何で?」と思っていたら「コンピレーション・アルバム」の項にあった。てっきり正式アルバムかと思っていた。
実は「英吉利の薔薇」はアメリカでのデビューアルバムで、コロシアムの時に書いたが、昔はイギリスのミュージシャンがアメリカでアルバムを出すときは、オリジナルではなく、例えばすでにイギリスで2,3枚アルバムが出ていた場合、そのアルバムから取捨選択して1枚に編集してアメリカのデビューアルバムを作る、という事は普通に行われていたのだ。(ビートルズもそうだった)
しかし、この年になるまで「英吉利の薔薇」がそうだったとは知らなかった(汗)ちなみに、2nd+3rd+未発表曲という構成らしい。

 

インバルのチャイコクフスキー交響曲第6番「悲愴」(と、我が家にある「悲愴」)

チャイコクフスキー交響曲第6番「悲愴」
インバル指揮 フランクフルト放送交響楽団(1991)

このCDはずいぶん昔に買ったのだが、なぜ買ったのか記憶が無い。たぶん、当時CDを買い初めで、とりあえず「悲愴」も1枚買おうと思ったときに、ブルックナーが良かったインバルをCD屋で見かけて買ったものと思う。が、当時聴いた時の記憶が全くなく、それよりもカップリングのワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」の方を聴いていた気がする。
で、ほんとうにふとちゃんと聴いておこうと思って聴いてみてこれはびっくりした。虚飾を廃した真摯でゆったりとした演奏で、裏メロと本メロをほぼ同音量にして、透徹した美しさを醸し出している。フリッチャイあたりとは対極の演奏であるが、これはチャイコフスキーの印象が変わるほどの名演である。

ちなみに我が家にある「悲愴」は演奏年順に以下の通り。

フルトヴェングラー指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1938)
モントゥー指揮 ボストン交響楽団(1955)
フリッチャイ指揮 ベルリン放送交響楽団(1959)

http://hakuasin.hatenablog.com/entry/20061021/p2

マタチッチ指揮 ローマ・イタリア放送交響楽団(1973)

http://hakuasin.hatenablog.com/entry/20090723/p1

ロジェストヴェンスキー指揮 ロンドン交響楽団(1987)
インバル指揮 フランクフルト放送交響楽団(1991)

フルトヴェングラーはEMIBOX、世評では名盤扱いだが、個人的にはフルトヴェングラーにはもっとやり倒してもらいたかった。
モントゥーは、リヴィング・ステレオBOX、以前にも書いたが世界文化社の世界の名曲シリーズで子供の頃生まれて初めて聴いた「悲愴」で、角がとれている印象があるが、標準的な名演。
フリッチャイ、マタチッチはリンク先参照。
ロジェストヴェンスキーは、数年前に聴くのを中断してしまったチャイコフスキー・エディションBOXで未聴。しかし、これを機会にロジェストヴェンスキーを聴いてチャイコフスキー・エディションを再開するかな。
チャイコフスキー・エディションの交響曲第4、第5もロジェストヴェンスキーであるが、これで第4、第5に興味を持ったら、フリッチャイ、インバルも第4、第5を録音しているので聴き比べをする、という手もあるな。

「志村けんのバカ殿様」の「みひろ」

以前、こんな事を書いたが

先日の「志村友達 大集合SP」を見た。こういう昔の映像を見ると、脇に映る当時のアイドル、歌手、女優さん達を見て、ああこういう人いたっけなあ、等と感慨にふけったりする。

http://hakuasin.hatenablog.com/entry/2020/06/23/075923

当地では遅れて入る「志村友達」のゲスト吉幾三が出ている「バカ殿様」のコントで、磯山さやかといっしょに出ていた腰元の人が実に笑顔がかわいらしい人だったが名前がわからない。調べに調べて「志村けんのバカ殿様 2011新春SP」放映時の「みひろ」さんではないか?と思うのだが、合ってるのかな?

 

「デューン/砂の惑星」のゴム・ジャバール

昨日、「DUNE/デューン 砂の惑星」(2020)の予告編でモヒアム教母がポウルの首筋にあてるのが長い針なのが違和感と書いたが

http://hakuasin.hatenablog.com/entry/2020/09/11/074138

ちゃんと調べてみたら、日本語版の用語解説では

ゴム・ジャバール:メタ・シアン化物を先端につけた特殊な毒針

とあり、特に形状についての説明は無い。これは原語の用語解説の直訳と思われる。
それであるなら、長い針でも間違いではない。

原語で調べると

Gom Jabbar:meta-cyanide poisoned needle that sat upon a thimble

という記述があり、これは「指ぬき」に装着された毒針ということで、これを発見した時は「やっぱり長い針じゃないじゃん」と一瞬思ったが、さらに調べると"thimble"(指ぬき)の付加された説明があまり多くない。
どうもこの記述は、最初の実写「デューン/砂の惑星」(1984)で指サック型の指ぬきに毒針が装着されていた事に引きずられている気がする(昨日は指輪に仕込んだ毒針と書いてしまったが記憶違いでした。すいません)
この「指サック型の指ぬきの毒針」の表現は影響が強く、2000年のドラマ版でもそのまま踏襲されていた。(なので、私も無条件にこの形状が正しい、と思い込んでいた節がある)また"Gom Jabbar"で画像検索するといろいろと出てくるが、多少の違いはあれほとんどが「指サック型の指ぬきの毒針」である。(たまに手のひらに装着する型の指ぬきもあったりするが)

なので、今回の映画は実はより原作に忠実と言えば忠実なのかもしれない。

しかしである。この毒針はいわゆる暗殺用である。武闘の訓練を受けているポウルの首筋にやすやすと針先を突きつけられるのである。モヒアムが特殊訓練を受けたベネゲセリットの教母という事を考慮してもは、あんなに目立つ長い針を堂々と使うというのは、やはり不自然な気がする。

 

「DUNE/デューン 砂の惑星」(2020)予告編

あくまで個人的な意見であるが、微妙なところ。
貴族的高貴さをもったイケメンのポウルはまあいいとして、他の配役がイメージがしっくりこない。
未来惑星ザルドス」「愛の嵐」のシャーロット・ランプリングのモヒアム教母は楽しみだったが、予告編では黒いベールをかぶったままで顔がわからんではないかっ。ゴム・バシャールのテストのシーンだがポウルの首筋にあてるのが長い針なのが違和感。ここは指輪に仕込んだ毒針でしょう。(あれ?原作はどうだったっけ?あとで確認しよう)
ちなみにファイド(フェイド)・ラウサがいないが、2部構成の2部に出てくるということかな。