呪われた村(1957)

ジョン・ウィンダム
あいかわらず前置きが長いがご容赦ねがいたい。
新婚当時、奥さんと中古ビデオ屋(DVDが爆発的に普及する直前の時期だった)へ行くと、奥さんは「光る眼」(未知空間の恐怖・光る眼)(1960)を一生懸命探していた。
当時は良く知らなかったので聞いてみたら、ジョン・カーペンターによるリメイク版「光る眼」(1995)を見て、やたら怖かったので、オリジナルを是非見たい、ということだった。
結局、長らくその願いがかなわなかったのだが、先日やっとレンタル流れの中古ビデオを入手したようで、私も見てみようとおもったのだが、せっかくだから原作を先に読もうということでユーズドで購入した(ああ、長かった)
ちなみにジョン・カーペンター版も私は見ていない。
さて、淡々とした物語の進め方でありながら、深い内容、文学的格調の高さはステープルドン以来のイギリスSFの伝統であることがよくわかる。テーマ的にも、表面的には侵略SFやホラーSFの形をとっているが、掘り下げてみると実はステープルドンの「オッド・ジョン」、クラークの「幼年期の終わり」と本質的に一緒であることがわかる。
つまり、良質のSFは人類論、文明論の側面をもってるということだ。
さて、これで映画版を見れる、と思ったら、1960年の「光る眼」は、日本未公開の映画オリジナルの続編とのカップリングでDVD発売されていた。う〜ん、続編も気になるなあ。

若者の車離れ

若者の車離れが深刻だそうである。
私なぞも車に特に思い入れがないから、先取りだったのか(笑)
(勿論運転は好きだし、便利だとは思うが、東京に住んでいたら不要と思うかもしれない)
まあ、冗談はさておき、人間の発想とうものは、硬化してゆくものだとつくづく思う。
大分前だが、某有名キャスターが(この人も実は頭がわるいのだけれど)あるスペシャル番組で
「我々の若いころは、高い車を買ってそれに乗るのが夢であり、憧れだった」と、今の若者の気持ちがわからない旨述べていた。
どんな人間も、自分の価値観が絶対だ、という落とし穴に落ちてしまうのだ。
最近読んだ記事にも、ある若い女性が「ボーイフレンドが車で迎えに来たら恥ずかしいと思うし、デートでドライブすることがカッコいいとは思わない」と言うのを聴いて、車関係者が驚愕したという。
極端な話をしよう。
明治維新になり、ちょんまげが禁止になった。そんな中、あくまでもちょんまげにこだわった古い人もいた。
「我々の若いころはかっこいいちょんまげを結うのがあこがれだった」
「ボーイフレンドがちょんまげを結ったら恥ずかしい」
勿論、これは暴論ではあるが、わかりやすい図式化にはなっていると思う。
しかし、よく考えてみたら、その昔に新しいものとして車に取り組んでいたようなクリエイティブな人間が現代に生きていたら、とっくに車などに見切りをつけて、ほかのものに眼をむけているであろう。つまりは、先達の遺産に胡坐をかいて、楽をしてきたノン・クリエイティブな人間が、現状にあせっているだけなのだ。