夜の言葉(初版:1979 改訂版:1989)

(邦訳:1985 文庫化:2006)
アーシュラ・K・ル=グウィン
中間報告
実はゲド戦記読了後に買ってあったアーシュラ・K・ル=グウィンのエッセイ集を、やっと読んんでいる。
エッセイ集とはいえ、論文に近くかなり読み応えがあるが、共感することや考えさせられることばかりである。

以下引用
(前略)なぜならば、言うまでもなくファンタジーは真実だからです。事実ではありません。でも真実なのです。子どもたちはそのことを知っています。大人たちだって知ってはいる。知っているからこそ、彼らの多くはファンタジーをおそれるのです。彼らは、ファンタジーの内なる真実が、彼らが自らを鞭うって日々生きている人生の、すべてのまやかし、偽り、無駄な些事のことごとくに挑戦し、これをおびやかしてくることを知っているのです。大人たちは竜がこわい。なぜなら自由がこわいからです。(第5章 アメリカ人はなぜ竜がこわいか より)引用おわり。

SFでもオカルトでもいいのだが、そういうものに拒否反応を示す人々は例外無く必要以上にヒステリックであるか傲慢である(気がする)それも、深く考えてもみようともせずに拒絶するのである。今はそうでもなくなったが以前はこんな風におもっていた。彼らは実はアイデンティティが確立していないのだと。そして、なぜがSFやオカルトを、自分の存在を脅かすかもしれないものとして拒絶しているのだと。ヒステリックや傲慢はその裏返しなのだと。

「SFとは思考実験である」というくだりもある。以前私はこういう文章を書いているが 

まさに我が意を得たりで、やはりその点で彼女の作品が好きなのであろうし、SFや小説に限らず、そういった部分を触発してくれる作品が好きなのである。

SF、ファンタジーファンのみならず、文学、神話、フェミニズム現代社会の問題点、等に興味がある方は一読をお勧めする。
(ただし、第4章でファンタジーの文体について語られているが、例としてあげた文章は、原文もあわせて載せて欲しかった。邦訳のみでは隔靴掻痒の感がある)

ちなみに、なぜ(初版:1979 改訂版:1989)とわざわざ書いたかというと第8章「性は必要か」(「闇の左手」についての文章」)において、初版の文章に対し改訂版時点の作者が、脚注やつっこみを入れているのである。「今はこうは思わない」とか「ここは当時かなり遠慮して書いているが、真意はこうだった」とか。そこらへんもかなり興味深い。