春秋戦国志

安能務
ふとしたきっかけで、安能務の「中華帝国志」の三国志の部分を読み返したら、また「春秋戦国志」が読みたくなってしまう。(こちら
一般に春秋戦国時代というと、春秋一覇である斉の桓公から語られる事が多い。管仲、鮑叔牙の「管鮑の交わり」の逸話ともあいまって、確かに春秋の出発点としては申し分ないのだが、半面、いわゆる東周が始まってから100年間、どういった状況で斉の桓公を生み出す背景が形作られたかはわからない。その点「春秋戦国志」は、鄭荘公と祭足のコンビ(斉桓公管仲のコンビのミニチュア版といったらいささか失礼か)が、いかにして周王室の権威が既に有名無実である事を、実践的に諸侯に証明しつつこの時代を生き抜き、それが土台となっていわゆる五覇の時代が生まれてきた事をわかりやすく説いてくれる。
鄭荘公といえば「黄泉相見」(潁考叔)のエピソードしか知らなかったので、これを読んだ当時は目から鱗だった。

そもそも春秋時代の各諸侯はほとんどが周の封じた縁戚が多いし、互いに姻戚関係で結ばれていたため同族意識が強く、争いはあっても互いの息の根を止めるまでには至らない場合が多い。また、どこかの国で政変が起き、王位継承権のある公子が自分の命が危ないとなると他国へ亡命し、亡命先がその公子を押し立てて軍でせめよせて、その公子を王位につけて恩を売る等のことが当たり前のようにおこなわれた。かの放浪公子として有名な晋文公の物語も、そういう背景が無ければありえなかった。そういったゆるい状況が春秋の特徴であり、ある意味のどかで、ゆるさゆえの興味深いエピソードがてんこ盛りなので、私はのちの殺伐とした戦国時代より好きだったりする。
それが、中原に言わせると蛮族である西方の秦、南方の楚の勃興により、そのゆるい状況は許されなくなってくる。かつてあった同族意識も無くなって来る。なにせ戦国七雄の趙、韓、魏は、晋の家臣が晋を三分割して建てた国だし、斉も家臣の田氏にのっとられている。そうしてさらに強大になった秦対他国と言う図式が戦国で、それが秦による統一へと流れていくわけだ。