リヒャルト・シュトラウス作曲「ばらの騎士」について

「ばらの騎士」とは、一言で言って
「年上の女性と付き合っていた若い男性が、その女性の深い理解の下、新しい若い女性を手に入れる話」
である。
なんとも男にとって都合のいい、フェミニズムからしたら噴飯ものの話である(笑)
そういっては 身も蓋もないのだが、これは事実なので、あらかじめそいういうものだと理解していただきたい。
このオペラ(楽劇と称する場合もあるが、シュトラウス本人は楽劇とはしていない)大変に長いし、それまでのシュトラウスのオペラよりは格段にわかりやすい音楽であるが、それでも後期ロマン派の難しさはあるかもしれない。
しかし、聴き慣れて来ると(ワーグナーの創設した)ライト・モチーフが随所に使用されているので、それを覚えてしまえば一気に理解が進むはずである。
つまりは登場人物ごとに(その性格もあらわした)メロディが設定され、その人物が登場したり活躍したりすると、そのメロディが流れるという次第である。
さて、おおざっぱな話の流れであるが
第1幕
時代はマリア・テレジア(かのマリー・アントワネットの母だ)統治期、
ピ○トン運動全開の(笑)前奏曲につづいて現れる舞台は元帥夫人の朝の寝室。
元帥夫人と若き恋人オクタヴィアン(伯爵)は、その余韻の中いちゃついている(笑)
ちなみに、歌手の実際の年齢もあるので、オペラを見た感じの年齢とと実際の年齢設定にはずいぶん差がある。
最初が オペラを見た時の(あくまで個人的な)印象 あとが実際の年齢設定。

元帥夫人 40代 32才未満
オクタヴィアン 20代前半 17才
オックス男爵 50代 35才
ゾフィー 20才前後 15、6才

17才といえばやりたい盛り、純情といえば聞えがいいが、愛と性欲の区別もついていない。
第1幕は、そこらへんが実にうまく表現されている。
元帥夫人が冗談めかして「いつかあなたは私を捨てて行ってしまうわよ」と言うとむきになって反論する。(第1幕の最後)

元帥夫人は、この当時の貴族にありがちな話だが、修道院を出てすぐ親の言いつけで親子ほどの年の差がある元帥(侯爵)のもとに嫁に来た。当時の貴族は結婚は政略のためで、恋人は別に持つ、というのが半ば常識であった。
(話は横道にそれるが「ベルサイユのばら」でオスカルの母が「夫以外に恋人をもたないなんて」とまわりからあきれられるシーンがあった)

さて、突然の物音に、昨日から狩へでかけていて今朝は帰ってくるはずのない侯爵か?と元帥夫人はあわててオクタヴィアンを衣裳部屋へ隠す。
しかし、早朝の無礼にもかかわらず、やってきたのは従兄のオックス男爵、最近爵位をもらった金持ちの成り上がり商人ファニナルの娘との婚約がきまったので、婚約の申し込みのさきぶれに銀のばらをもってゆく「ばらの騎士」の人選を頼みたいとの事。
オクタヴィアンは衣裳部屋で小間使いのかっこうに着替えて現れる。
このどさくさにまぎれて帰るつもりだが、好色の男爵はこの小間使いを口説き始めるので容易に逃げ出すことができない。
夫人はいたずら心もあってオクタヴィアンを「ばらの騎士」に推薦する(ここで夫人はやってしまったわけだ(笑))
そうこうしているうちに朝の「ルヴェ」の時間がやってくる。
現代の庶民には理解しがたいが、当時の貴婦人は、朝、ネグリジェのまま化粧や髪を整えている間、多くの面会人を寝室に引き入れて時を過ごしていたらしい。
援助を求める孤児3姉妹、動物売り等々入り乱れる中、男爵は公証人と結婚契約書を作成しはじめるが、強欲な男爵は本来は権利のない金を、なんとかファニナルからもぎとろうとする。
公証人は、そんなことは常識では考えられない、前例が無いとつっぱねる。
この場面が、このオペラで唯一のテノールの聴かせどころ、他の貴族からさしむけられた、イタリア人の雇われ歌手のアリアの場面である。
若手登竜門でもあり、また思いがけない大物が歌ったりして楽しめる場面だ。
そして、あくまでも拒む公証人に男爵がどなりちらす声で歌手の歌は中断されてしまう。
面会人もオックスも帰り、オクタヴィアンが着替えている間、夫人は物思いにふける。
「修道院から出たばかりのあの娘はどこにいってしまったのだろう」と、ただただ年を重ねていく身を嘆きながらも、それを受け入れるべく気持ちを強く持とうとする。
ラストの三重唱と共に夫人役の聴かせどころである。
着替えて現れたオクタヴィアンに、元帥夫人が冗談めかして「いつかあなたは私を捨てて行ってしまうわよ」と言うとオクタヴィアンはむきになって反論する。(上記)
そしてすげなくオクタヴィアンを帰してしまうのだが、その瞬間我に返り「口付けの一つもしてあげなかった!」とベルをかき鳴らして召使を呼び、オクタヴィアンを呼び戻させるが、時既に遅く、オクタヴィアンは馬に乗って去っていったあとだった。
思えば、次にオクタヴィアンと会うのは既に彼がゾフィーと恋に落ちた後である。
そこら辺を暗示させる、実に心憎い台本である。
第2幕の前に個人的な意見。
夫人はリリコの役どころであるが、リリコ・スピントがやる場合も多い。しかしやはりリリコでなくてはこの高貴さや哀切は出てこないだろう。
個人的にはヤノヴィッツの映像や、音質のいい録音が発見されて欲しい。
フィガロの伯爵夫人をあれほどユーモラスかつ高貴に演じたのだから、映像やいい録音が無いということは人類の損失だ(オーバーと言われるかもしれないが、以前触れた「オペラ名作名演全集」に「最盛期の彼女の録音が残らなかったのは、本人のみならず残念なことだ」とある)
オクタヴィアンはメゾだが、歌手のキャラクターがオクタヴィアン向けだと判断された場合はソプラノが歌う場合もある、が、やはりメゾに歌って欲しい。
女性が男性の役を演じるのだから、完璧に男性に見えるはずも無いが、そこはかとなく男性の色気を(無理やりに作っているのではなく)自然にもっている歌手がベストである。(声も含めて)
その点ファスベンダーは(宝塚的かも知れないが)やはり次元が違うオクタヴィアンだった。
男爵は演技とテクニックどちらをとるかで歌手もわかれるところだ。
いくらうまくても(過ぎてはいけないが)下卑た俗っぽさがユーモラスに出ないと意味が無い。

第2幕
数日後、にわか貴族のファニナル家は「ばらの騎士」迎える名誉に浮き足立っている。
(ちなにみにわか貴族といいながら爵位が明記されていない。男爵との応対で男爵よりは下のように見えるが、男爵は爵位の中では最下位のはずだ。そこらへんどうなってるんだろう)
「ばらの騎士」の登場する場面の音楽は、荘厳かつ美しさの極地である。
そして、銀のばらを手渡したとたん、オクタヴィアンとゾフィーは恋に落ちる。
そもそも、婚約のさきぶれにいい男が現れたら、その男に恋をしてしまう可能性は大なのに、なんでこんな習慣があるのかとお思いかもしれないが、実は「ばらの騎士」という慣例は史実には無く、台本作者ホフマンスタールの創作である。
つまりは、二人が恋に落ちるために作られた設定なのであった(笑)
二人は婚約の申し込みに来る男爵を待つ間、しばしのご歓談。ここらへんで、まだまだ子供っぽさの残るゾフィーがほほえましく表現される。
かねてからゾフィーはいかにも娘っぽい声質のリリコが演じてきたが、ルチア・ポップによってその歴史は激変したといえる。
コロラトゥーラとしてデビューするも、その凛とした声質でリリコの娘役のイメージを変えたといえる。
このゾフィー役でも、無邪気さ、純粋さ、高貴さ、すべてを兼ね備えたポップはやはり次元が違っていた(好みはあると思います)
最近だと森麻季やユリアーネ・バンゼの正式録音を(出るなら)待ちたいと思う。
そうこうしているうちに男爵登場、婚約者を金づると性欲の対象としか見ない男爵にゾフィーもオクタヴィアンも嫌悪感もあらわ。
男爵はファニナルと別室へ、男爵の従者達が酒に酔ってあばれ出したために人が出払ってしまい、ゾフィーとオクタヴィアンはまた二人きりになり、ゾフィーはなんとか男爵と結婚しなくて済むようにオクタヴィアンに懇願する。
第1幕で男爵の手下になった(たぶんイタリア人かジプシーの)何でも屋のヴァルツァッキとアンニーナがそこを不貞の現場として取り押さえ男爵を呼ぶ。
オクタヴィアンはゾフィーの代わりにゾフィーは男爵と結婚する意志の無いことを告げるが、男爵は取り合わない。
激昂したオクタヴィアンは剣を抜く。男爵も剣を抜いて応じるが、あっさりと肘に軽症をうけておおげさに「人殺し」と叫びまわる。
ファニナルもやってきて事の次第にうろたえ、オクタヴィアンは詫びを入れて退場。
ファニナルは男爵に手当てを受けさせ、結婚をしぶるゾフィーには「修道院へ送り返すぞ!」とにべも無い。
手当てを受け酒を供じられた男爵はすっかりいい気持ちでワルツを歌う。
ちなにみ、この通称「ばらの騎士ワルツ」はウィンナ・ワルツ形式だが、マリア・テレジアの時代にはウィンナ・ワルツはまだ存在していない。
そこへ金払いの悪い男爵からヴァルツァッキと共にオクタヴィアンに乗り換えたアンニーナが、小間使い(実はオクタヴィアン)の手紙をもってやってくる。
男爵は「やっぱり俺はもてるんだ」と、さらにご機嫌になって第2幕は終わる。
第3幕
まとめて書くと、オクタヴィアンの計略と話の流れは以下のとおり。
小間使いにばけて男爵と居酒屋(ベッド付の個室なので、別の目的にも使えることがあきらか)へ行く。
ヴァルツァッキが集めた人間を部屋のそこかしこに潜ませ、合図ともに男爵を驚かし騒ぎを起こす。
アンニーナは子供をいっぱい連れ、自分は男爵の妻でありこの子達は男爵の子であると騒ぎ立てる。
警官がやってきて、身元を正すと、男爵はあろうことか小間使いのオクタヴィアンを婚約者のゾフィーだとして言い逃れようとする。
その騒ぎの中、ファニナルに男爵の名で偽手紙を出し、居酒屋へ来るよう伝える。
ファイナルがこの騒ぎをみて、男爵に愛想をつかし、結婚の話をご破算にさせる。
オクタヴィアンの誤算は、この現場に元帥夫人とゾフィーがやってきたこと。
オクタヴィアン=小間使いということがわかると、つまり元帥夫人の寝室に早朝にいたのはオクタヴィアンということは男爵にとっても明白である。
ソフィーはその会話から元帥夫人とオクタヴィアンの仲をさとり、自分とオクタヴィアンとの仲はすべて茶番とあきらめなければならないと思う。
オクタヴィアンはたぶんずるく考えて(笑)この場を収めた後、徐々に夫人と離れゾフィーとくっつこうとしたのでは、などと勝手に思ったりする。
なので、この場で鉢合わせとなりうろたえまくっている。自分の心も自分で定かではない感じ。
夫人はファニナルを自分の馬車で送ってゆくという。今、憤慨し、かつがっかりしているファニナルには私が良い薬を上げましょう、ということで、たぶんオクタヴィアンとゾフィーの縁談を持ち掛けるのであろう。
そして、気落ちしているゾフィーには「あなたの青ざめた顔には彼という良い薬があります」とゾフィーの背を押す。
見かけは諦念でも、最後の最後の瞬間まで夫人の思いは複雑である。そこら辺の感情を表しながらの演技と歌唱がまさに見せどころ、聴かせどころ。
そして、三者三様の思いをこめた怒涛の三重唱のクライマックスに突入する。
夫人はいったんファニナルの元へ去り、残った二人の穏やかな愛の二重唱が始まる。
モーツァルトの「魔笛」に似たフレーズがあるとか、シューベルトの「野ばら」に似ているとか揶揄されることもあるメロディだが、そんな事でこの曲の価値は下がらない。
そして前日と重複するが、ファニナルと元帥夫人が顔を見せ

「若い人たちとは、こういうものですかな」

と語りかけるゾフィーの父に、元帥夫人が

「Ja,Ja」

と相槌を打つ。

ファニナルは元帥夫人とオクタヴィアンの元の仲を知らないので、元帥夫人は何食わぬ顔で「Ja,Ja」と言わなければならない。しかし、そこには隠し切れない万感の思いがある。
ここも個人的には夫人役のみせどころ、聴かせどころである。
また、この時の音楽が、第1幕で例の、夫人がオクタヴィアンをなだめすかしている時の音楽だというのも実にうまい。
二人が居酒屋を去るとき、ゾフィーはハンカチを落としてしまう。
それを第1幕で登場した元帥夫人の黒人の少年の召使が、ランプを片手に探しにくる。
首尾よく見つけてハンカチを振りながら去ってゆくところで幕はおりる。
この時の音楽もライト・モチーフで、その第1幕の黒人召使登場の音楽で、円環的にこのオペラは終了するのだ。

このオペラは全体に優美なウィーン的雰囲気を持たなければならない(ワルツのリズムのとりかたとか)
さらにシュトラウスお得意の後期ロマン派的絢爛なるオーケストレーションも制御しなければならない。
以前にも書いたが、シュトラウスのそれまでのオペラよりは平易になってはいるが、歌手のフレーズも跳躍が多く難しい。
しかし、その分名演になるとその魅力ははかりしれない。
20世紀以降に生まれたオペラで(オペレッタのメリー・ウィドウを別とすれば)これほど上演回数が多いオペラは皆無である。
勿論台本の良さもあるだろう。わたしも時に涙することがある。
しかしよくよく考えるとこの話は「男性」が書いた話だ。
男性が男性の価値観で勝手に夫人の悲劇を作り、それに同情したりして、涙したり感動したりするように「男性」が書いた話なのではないか、と時折思ったりするのも確かである。
そこらへん女性の忌憚の無い意見も聞いてみたい。

 
三重唱の夫人の歌詞(渡辺護:訳)
 
私が誓ったことは、彼を正しい仕方で愛することでした。
だから彼が他の人を愛しても、その彼をさえ愛そうと。
でもそんなに早くそれが来ようとは勿論思いませんでした。
この世の中にはただ話を聞いているだけでは信じられないことが沢山ある。
けれども実際にそれを体験した人は信ずることができるけれど、でもどうしてだかは判らない
−−此処に「坊や」が立ち、此処に私が立っている。そしてあそこには他の娘が。
あの人はあの娘と幸福になるでしょう。
幸福ということをよく知っている男たちと同じように。
  
最後は若干皮肉が入ってるのかな。