今回のクレルヴォ三昧に入る前は、ベルグルンド盤(1970)サロネン盤(1992)デイヴィス盤(1996)ヴァンスカ旧盤(2000)を繰り返し聴き、この曲の魅力を徐々に理解しながらも「なんか違うんだよなあ」という思いが頭から離れなかった。
入手可能なクレルヴォ交響曲をなるべく入手しよう、というのもそこから始まったのだが、ヨルマ・パヌラの「自然体」に出会い、いろんな点で納得がいった。
何回も書いているが、シベリウスに興味をもったのがティントナーによる交響曲第7番であり、この人も究極の「自然体」なのだが、その後さまざまな指揮者のシベリウスに触れ、なんだかんだ言いながらも上記の「なんか違うんだよなあ」という思いは、無意識のうちに感じていたのだろう。「交響曲第何番はこう演奏してほしい」等の記事をよく書いて「理想の演奏に巡り合えない」みたいな事を書いたのは、その表れだと思う。
ラハティ響時代のヴァンスカは、精緻、清澄、透徹性に徹したシベリウス演奏で、シベリウス解釈に新しい道を開いたと絶賛されていたが(勿論それも素晴らしいのだが)やはりそこには作為性がある。前にも書いたが、心のどこかで「自然体」のシベリウスを求めていた私は、それにもっとも近いと感じたヴァンスカを支持してきた。しかし、ヨルマ・パヌラやサラステに出会い「これぞ求めるシベリウス!」と自分のシベリウスの理想が存在したことを知り、さらにミネソタ響時代のヴァンスカが、クレルヴォにおいて彼なりの「自然体」の境地に達したことを知った。これが今回のクレルヴォ三昧の大いなる収穫であった。
ヨルマ・パヌラは他のシベリウスが無い(第5があるらしいが、現在入手不可)サラステは交響曲も管弦楽もあるので、いずれ揃えていきたい。もしかしたら、ここで私の理想がかなうかもしれない。また、ヴァンスカも今後どんなシベリウスを残してくれるのか楽しみだ。
ちなみに、ミネソタ響とのシベリウス交響曲全集が間が空いてしまった理由が、ミネソタ響側の事情でヴァンスカが音楽監督を辞めていた時期があったそうだ。
さらにちなみに、入手可能なクレルヴォを全部入手したつもりだったが、まだ何種類か残っていた(汗)すぐには無理だが徐々に入手していきたい。