デューン/砂の惑星Ⅱ(2003)

上巻
テレビドラマシリーズに続編があったとはつい最近まで知らず、買いそびれるところだった。あぶないあぶない。今回は2作目「砂漠の救世主」3作目「砂丘の子供たち」のドラマ化で、これは3DVDBOXの1巻目、ただし、2,3作を一つの話の流れで構成しなおしているらしく、この2作目の部分は、3作目への序章的位置付けとして、かなり大胆な省略とアレンジがある。忠実にドラマ化するなら、この倍は時間が必要だ。しかし、この作品の悲劇性と重要テーマは抑えてある。
そもそも、ハーバートの「砂の惑星」シリーズというのは、新しい作品が出た時点で、その前までのすべての作品が「序章」扱いになってしまうというやっかいな性質をもっているのも事実である。栄光に包まれたヒーローは、悲劇に苦しみ、あっけなく踏み台にされ、正義の立場の主要人物が、あっさりと悪の立場に移行する。人類3000年の平和のため、その身をささげた次のヒーローは、諸悪の根源とされる。あたかも、読者の感情移入を、常にはずそうと試みているかのようだ。また、何が善で、正義かも定かではない。砂漠の星に水が溢れることは善ではないのか?しかし、それは、この舞台設定での富の源泉である「メランジ」という香料の枯渇を意味する。人類が何の争いもなく3000年以上平和を享受する事は善ではないのか?しかし、それは人類文化停滞を招く。未来予知ができること、自分の遺伝子を作った過去の全人類の記憶をもてること、一見、大変便利そうだが、その実態は・・・・。私は長年このシリーズに親しんできて、いったいハーバートはこのシリーズを何のために書き、いったいどこに落としどころをもっていこうとしているのだろうと、ずっと思っていた。そこまで見届けないと、真の意味でこのシリーズは理解できないと思っていたのだ。だから、彼の死によりシリーズが未完に終わった時、ぼう然としたものだ。(彼のメモをもとに息子が完結編を書くらしいが)しかし、もしかしたら彼は、この変遷する曖昧な価値基準こそを、書き続けたかったのかもしれない。すなわち、それが人類の真の姿であると。
余談であるが、アメリカは日本と違って、映画俳優とテレビ俳優との間に厳然たる壁がある。テレビ俳優だけなら気にならないのだが、一人ベテランの映画俳優がまじると、とたんにオーラの差が出てしまう。
またまた余談だが、クライマックスに流れる音楽が、アディエマスのぱくりではないか!?