ヴェルディ「仮面舞踏会」

レヴァイン指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団(1991)
グスターヴォ3世:ルチアーノ・パヴァロッティ
レナート:レオ・ヌッチ
アメーリア:アプリーレ・ミッロ
ウルリカ:フローレンス・クイヴァー
オスカル:キャロライン・ブラックウェル→ハロリン・ブラックウェル

ミラノ・スカラ座 ヴェルディ・ボックスには、バスティアニーニの参加する「仮面舞踏会」がある。せっかくだから、その前に映像を見たかったので、半年前に出ていたデアゴスティーニ・オペラを取り寄せ注文してしまう。(汗)
こちらは、本来の設定、、スウェーデン王3世の暗殺事件に戻した舞台で、確かにアメリカ総督暗殺よりこちらの方がやはり収まりが良いので映像はこれが見れて良かったと思う。ただし、スウェーデン人であるはずのレナートを本国へ帰す辞令ってどこの本国よ、という矛盾がおきてしまうが。
この悲劇は、不倫が元になっているが、そもそもは起きなくてもよい悲劇であった。男女共に相手の心を知らないうちは互いにあきらめるつもりだったのである。それがひょんなことからお互いの心を知り、ひょんなことからその場に王の忠臣かつ女の夫が居合わせてしまったのだ。そして、そのひょんなことを起こすきっかけを作ったのが王思いの何の悪意もない、無邪気な小姓オスカルなのだ。まさにキーマン(ソプラノだがズボン役なのでマンでいいだろう)だが、オスカルが無邪気であればあるほど悲劇性は高まる。憎いばかりの作劇法である。それに付けられた音楽のまた濃いこと、深いこと、そして楽しいこと!
映像を見てまず感じる事は、このオペラが「無条件に面白い」ということだ。「悲劇なのに楽しい音楽」というのはイタオペの伝統である。それに対する批判がヴェリズモやワーグナーであり、ヴェルディもこのオペラの後の「運命の力」あたりからヴェリズモやワーグナーの影響が出始める。
つまりはこの「仮面舞踏会」は「悲劇なのに楽しい音楽」であるイタオペ伝統の最後に咲いた大輪の花と言える。
レヴァインについては今までは「何でも振るが、それなりでしかない」と思っていたが、先日の「運命の力」(こちら)で見直したのだが、こちらについても同様、実はこの人はヴェルディのここらあたりが得意だったのか?今まで、彼の不得意分野ばかり聴いていたのか?(笑)
歌手陣も間然するところがなく、これは万人に勧められる映像である。

なんか、すっかり「仮面舞踏会」が気に入ってしまったな。ヴェルディ・ボックスの分を聴いたら、またカラス盤、トスカニーニ盤を聴きなおすかな。


ちなみに、以前
「第2幕に男声が笑いながらハモるシーンがあるが、これは秀逸」と書いた事があったが(こちら)実は、死刑台のふもとで、互いの心を確かめ合った王とアメーリアのもとに、王に対する暗殺集団が迫っている事を知らせに、アメリアの夫であり王の忠臣であるレナートがやって来る。王はベールで顔を隠したアメーリアをレナートに託して逃げる。
そこへ暗殺集団がやってきて、王と女が逢引中のはずなのに、いたのはレナートであったために、せめて王の相手である女性の顔を拝みたいものだ、と剣をもってレナートにせまる。アメーリアは夫の命を救うためにあえて顔をさらす。一同驚愕。
呆然とするレナートに対し、暗殺集団が「自分が忠節を尽くしている王に、妻を取られるとは」と嘲笑を浴びせる。それが笑いながらハモるシーンなのだ。(長くてすいません)
耳には大変明るく楽しい音楽なのだが、舞台ではレナートが屈辱にまみれている、ある種残酷なシーン、この「音楽」と「場面」の矛盾がまた悲劇性を高めている。