アヴァロンの霧(1983)

マリオン・ジマー・ブラッドリー
何回か浮気中断をしながらも、やっと読了した。前回の記事はこちら
読み進むにつれ、いろいろな感想があったので、メモしたりしていたのだが、全て読了したら、それらのメモは廃棄した。つまりは、途中の感想は、あまり意味がなかった。
ドルイド教対キリスト教、男性原理対女性原理、と言ってしまえば話は簡単なのだが、実はそういう風に、スパッと割り切って解釈できる作品ではない。登場人物はすべて矛盾を含み、登場人物の分だけテーマがあり、それがタペストリーのように複合的に織り込まれていて読み応えがあるる。
ただ、第4巻に入って、物語がクライマックスを迎える段になると、ここにいたるまでに、これまでの3巻分の長さが必要だったのだろうか・・・と感じたのも事実。
元々、もっと短い話(現在の半分ほど)だったのが、出版社の要請で引き延ばされて現在の長さになったようだが、元の長さの方で読みたかった。(この長さだから深みが出た、という意見も聞かれるのだけれど)
多分クライマックスの第4巻は、ほぼ元の通りだと思う。なぜかというと、3巻までと4巻では、文章のテンポ、スピード感、文章から感じられる「圧力」にかなり落差があるからだ。なので、第4巻にはいると別作品を読んでいるのか?と一瞬とまどってしまった。
作者は1999年に亡くなっているが、オリジナル原稿が残ってないのかな。残ってたら是非出版して、翻訳もして欲しい。
しかし、ドルイド教に、グノーシス哲学、またはスピリチュアル思想を仮託して描き、ある意味徹底的に反「キリスト(教会)教的」な内容を、キリスト教圏内においてフェミニズム満載で仕上げたこの作品は、やはりファンタジー史上に残る金字塔ではあろう。
つくづく思うのが(勿論、対ドルイド教という位置づけの描き方だが)キリスト(教会)教の「罪の概念」が、いかに人の心をむしばみ、ゆがめてしまうのか、と言う事。
以下ネタバレ注意
アーサー王伝説」における「聖杯」とういのは、聖なるものでるが、反面「聖杯探求」により多くの「円卓の騎士」が命を落とし、それは「アーサー王権」の弱体化を招き、ひいてはその崩壊の遠因となる、とう矛盾した性質をもっている。
一方、その「聖杯」は元々はケルト神話における「ダグザの大釜」であるとする説が有力である。
アヴァロン(ドルイド教)を残したいモーゲンと、せめてキリスト教の中にアヴァロンの痕跡を残す事により、結果的にアヴァロンを残すしか道は無いと判断したケヴィン(この時点でのマーリン)は衝突し、ケヴィンはアヴァロンの宝器をキリスト教の儀式のためにアーサーにささげる。それが、アヴァロンの女神の力か、モーゲンを通して、出席者全員に「聖杯の奇跡」が起こり、宝器は姿を消し、騎士たちは「聖杯探求」を決意する。
つまりは、アヴァロン発の宝器が、アヴァロンを裏切ってキリスト教一辺倒になったアーサー王権弱体化のためのアイテムになった、ということになる。
最初にあげた「聖なるもの」「弱体化を招くもの」「ケルトの大釜」の三つが、何の矛盾もなくつながるではないか!これだけでもブラッドリーが凄いってことがわかる。
また、敵役のモーゲンが、アーサーの死の際にアヴァロンから船で迎えに来る矛盾、コーンウォール公がいたはずなのに(トリスタンとイゾルデの)コーンウォール王のマルケ王が存在する矛盾、など、けっこうアーサー王伝説の矛盾が解消されているのを探すのも楽しい。