縄文時代についてはこのブログでも書いているし、別ブログでも書いているのだが
例えば
http://blogs.yahoo.co.jp/hakuasin/36341617.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hakuasin/36545444.html
最近
農耕文化をもった弥生人が日本にやってきて、彼らが持っていた信仰を、元からの縄文的思想を土台として再構成したものが、今我々が認識している「神道」である。
こんな風に思うようになってきた。実は後から知ったのだが、梅原猛さんも似たようなことを書いておられたので、私が最初に考え付いたのではない、というのは残念だが、梅原猛さんとは別に、独自に思いついた、ということは主張したい。
文字を持たなかった縄文人が、どんな宗教性をもっていたのか、は確実な事はわからないなのだけれど、東日本や東南アジアの農耕文化圏の宗教になくて、神道にある、そんな要素があれば、それが縄文人独自の宗教性と言える。
それは、例えば、キリスト教がヨーロッパに広まったときに、土着の地母神信仰が元になって聖母マリア信仰が発生した、という話があるが、元のキリスト教に無いから聖母マリア信仰はヨーロッパに元々あった信仰である、とわかるようなものである。
そうなると、縄文独自の宗教性はいくつか浮かび上がってくるのだけれど、その一つに「言霊」があげられると思う。
そうなってくると、仏教も日本は独自の発展を遂げたのだけれど、「南無妙法蓮華経」とか「南無阿弥陀仏」とか唱えればよい、というのは、実は日本独自のもので、これも実は「言霊」的発想であり、元は神道、そしてその元は「縄文」ということになるのだ。
そう考えると、現代人も、気が付かないうちに縄文的発想をしているに違いない。