縄文時代について
最近映画化された「ライアの祈り」(森沢明夫)を読んだ。この作品についての感想はいずれ書く。
今回書きたいのは、考古学の進歩により「縄文時代」の概念が、昔と今では変わってきた、ということ。
私の時代は、縄文時代と言えば、原始時代に毛が生えた程度で、本当の文化は弥生時代に生まれた、という認識で、現在でもきっとそういう人が多いと思う、
しかし、実際は、かなり高度な文明があったということが、最近のまでの調査で分かってきている。
ネット上で、この作品の映画化に対する批判を書いている人がいて
確かに縄文時代の発掘された骨には争いや戦争で死んだという形跡がなく、弥生時代に入り富の蓄積が起こったがゆえに争いや戦争で死んだ形跡のある骨が見つかってきているのは事実である。しかし、それは縄文時代が食糧が乏しく、平均寿命が短くて人口が少なかったからだ。
と縄文時代の文化性を切り捨てている。
しかしである。食料が乏しければ、死活問題として逆に争いは起きるであろう。この人はやはり「原始時代に毛が生えた程度」という過去の縄文時代の概念にとらわれているのである。
海、川を含めた狩猟や採取が主体(簡単な畑作は既ににあった)の縄文時代は、実は現在の想像以上に、富を蓄積してもかまわないほど豊かになれたはずであったが、それを自然界からの恵みと認識していた縄文人は、富の蓄積をするための狩猟、採取を、自然に対する冒とくと考え、決して必要以上の採取を行わなかった、というのが正解のようだ。
縄文時代を貶める人は、弥生的文化価値観に洗脳されているであろう。