日本語と外国語

(以下の論理展開は語弊があるかと思いますが、大目に見てください)
外国の小説は登場人物の名前が覚えられないから苦手だと言う方がいる。実は私もかなり同感である。なので、登場人物一覧等があると非常に助かる。で、なぜだろうと考えると、例えば日本人の名前はだいたい漢字で表記されるからだいたい3〜5文字ぐらいで、それも漢字のイメージもあり、すっと頭に入って残りやすいが、カタカナ名だと、日本語の構造上どうしても長くなってしまい、漢字と違ってそれのみで意味を持っているわけではないので、頭に入りづらい、残りづらい、という事があると思う。これが例えば英語を母国語とする人が英語の名前を見ても、アルファベットならそう長く感じられないし、我々が日本語で外国人名を読む時とは、頭への入り方が根本的に違うのではないか。(英語はある意味見た目がシンプルなので、日本語より狭いスペースで多くの情報量がつまっている 原本と翻訳本の厚さの違いを見れば一目瞭然)
そうすると以前こんな事があったのだが(こちら)ある方が英語の師匠に「英語の論文は文学作品でもなければいけない」「箇条書きはみっともないからダメ」といわれたとの事であるが、そのときは「え?」と思ったのであるが、何のことは無い。もともと見た目がシンプルな外国語は、論文を文学的にしても充分外国人にはわかりやすいのであった。逆に、元々字数を多く使ってしまう日本語は(比較的論理表現より叙情表現に向いているという事もあるだろうし)論文にするには、なるたけシンプルに箇条書きのようにしないとわかりづらくなってしまう、という事だったのだ。だから、英語の論文をそのまま日本語に翻訳したら、わかりづらくなるのは当然なのだ。
翻訳を生業としている方々にお願いしたい。外国語と日本語はこんなにも違うのであるから、意訳しろとは言わないが、付録として、わかりやすくした何か(表でも図でも箇条書きでも)を、原文に無くても付加してもらえないものだろうか。

さらに言えば、なぜ外国人がしゃべり方やゼスチャーがオーバーなのかの理由もこれでわかるなあ。"I Love You"だけで千差万別の"I Love You"を表現しようとしたら、そうならざるを得ないもの。日本語はいくらでも言い方があるので、ことさら、しゃべり方やゼスチャーで誇張する必要が無いってことだな。