フルトヴェングラーのアッチェレランド

以前、フルトヴェングラーの「指環」全曲は2種類ある、と書き(こちら)最晩年の1953年のRAIローマ放送交響楽団による放送録音用ライブを買った(こちら
もう1種類は、1950年のミラノ・スカラ座であるが、なぜこちらを買わずに1953年盤を買ったかと言うと、1950年盤は、フルトヴェングラー・ファンにはすこぶる評判がいいのだが、まさに買わなかった理由がそこで、たぶん、フルトヴェングラーお得意のアッチェレランドの嵐(笑)であろうことは想像がつく。
フルトヴェングラーのアッチェレランドは、ベートーヴェンには有効でも、ブルックナーには有効でない、と以前書いた事があったが、ワーグナーにも同様な事が言える。
なので、最晩年であれば、かなりアッチェレランドが押さえられているであろう事は、他の録音から想像がつくので、こちらを買ったわけだ(結果的に個人的には正解だったと思う)
しかし、なぜフルトヴェングラーのアッチェレランドがベートーヴェンには有効なのに、ブルックナーワーグナーには有効でないのだろう、という疑問は、以前からあった。
ブルックナーの場合には、ブルックナーが書いたとおりのテンポでなければ、ブルックナーの表現したい事が表現できない、とは思っていたのだが、それだけだと理由として弱い気がする。
で、最近なんとなく思うのが
以前ちらっと書いたのだが(こちらベートーヴェンは、ソナタ形式の展開部を拡大するために、主題を分散和音的にしている場合が多い。本来はメロディも書ける人だという事は、エリーゼのためにとかを聴けばわかるし、晩年の弦楽四重奏曲は、管弦楽で分散和音的主題を使いすぎた反省から書かれたらしい。
それに対して、ブルックナーも分散和音的な主題が多い事は事実だが、彼の真骨頂は「対位法」にある。「対位法」と言えばメロディとメロディの組み合わせである。
ワーグナーも和声の作曲家的な言われ方をするけれども、オペラなのでやはり分散和音的かメロディ的かと言われたらメロディ的であろう。(実は対位法的にも、かなりのものらしい)
そして「アッチェレランド」とは、徐々にテンポが上がることである。
つまりは、徐々に音価が短くなってくるわけである。
テンポが上がる事により、聴衆の興奮度は増すが、その分、メロディ自体がもっている美しさを犠牲にすることになる。
メロディ主体の音楽は興奮度より犠牲の方が大きく、分散和音主体の場合は、もともとメロディの美しさにたよっていないから犠牲は少なく、興奮度の方が大きい。
だから、フルトヴェングラーのアッチェレランドがベートーヴェンには有効であるが、ブルックナーワーグナーには有効でない。
うーん、こういう説を唱えた人は、今までいたかな?というか、まるっきり的外れの可能性もあるが(笑)