その4

とにもかくにも「プロ」になれるということは当時の20才かそこらの若造には何よりも魅力的であったし、ハードロックも好きなジャンルであったので、自分がどれほど通用するかという答えを得るためにも私はこのバンドに参加したのであった。後から聞いた所によると、私の採用は微妙だったようで、ドラムの豊田さんが「なんか他と違うから(というか新しい可能性がありそうだから)」と言う理由で推してくれたらしい。(一般的には変なベースを弾いていたから)豊田さんがそう思ってくれてラッキーであった。
このバンドではかなり好きにやらせてもらった。もちろん日高さんや豊田さんからは、指示があったし、私も変なことをやるとはいえ、曲を崩すことは嫌いだし、曲の起承転結に沿うように工夫もしていた(これは自信がある)しかし、それ以外ではかなり好きに弾いていた。しかし、自分の音楽を自分のバンドで演奏していた人間にとっては、(当時の若さもあるが)だんだんいつまでも他人の曲を演奏することに飽きも感じてきていたことも事実である(今ならありがたく演奏させていただくのだけれど)そしてあることをきっかけに"ma ma doo !!"を脱退する。
この件については、自分を含めて誰の悪口も書きたく無いし、今更自分を弁護するのもいやなので、詳細は書かないが、バンド内の確執とかは一切無かったと言っておく。
"ma ma doo !!"解散後豊田さんから声をかけていただいたが、"ma ma doo !!"時代に、自分の音楽ができなかったこともあり、もう他人の音楽はいやだと思ってしまって断ってしまった。(今思えば惜しいことをした)
その後、それまで自分なりに勉強していた「クラシック」や「邦楽」「民俗音楽」をさらに勉強していった(といっても、なるべく多くの音楽を聴いたり、クラシックなら楽譜を分析したりといった程度だが)そうこうするうちに、あまりにもいろいろ聴きすぎて、はたして自分がこれからどんな音楽をやるべきかが全くわからなくなってしまった。
そして、毎日バイトへ行き、帰ってきては酒を飲んで寝てしまう毎日がいったい何年続いたろうか。今考えるともったいない日々だったと思う。当時の収入源は日雇いの返本整理で1日5000円程度だったので、酒を飲んでしまうとほとんど貯金もできずに、何の身動きも取れない状態だった。ここらへんの状況は既に日記に書いている。とりあえず終了。