カラヤン フィルハーモニア管のシベリウス まとめ

今回購入した、カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団シベリウスの曲目と録音年は以下の通り。

交響曲第2番(1961)ステレオ
交響曲第4番(1953)
交響曲第5番(1961)ステレオ
交響曲第6番(1955)
交響曲第7番(1955)
フィンランディア」(1953)
「タピオラ」(1953)

いつも通り交響曲の番号の降順で聴いていったのだが、カラヤンの耽美的なアダージョの音作りは、シベリウスと相性が良い事がわかった(くやしいが(笑))
細かい点を言うと、第7番は長いアダージョの後、2度ほど若干テンポが上がりまた落ち着きを繰り返した後、私がいつもテンポを上げて欲しくない、というアレグロ部分になるのだが、その若干上がる部分をアダージョで押し通すのはいかにもカラヤン流で、これがまた新鮮で悪くない。結果的にその後のアレグロのせわしなさを回避している。
同様に、第6番のフィナーレで、やはりテンポを上げて欲しくない、というラス前を、早い段階でアッチェレランドをかける事により、結果的に速い部分のせわしなさをこちらも回避している。今まで聴いた第6番の中でも、最も欠点が少ない名演の一つと言える。
その後も、どこかに欠点はないか、気に入らない点はないかとあら捜し的に聴いていったのだが(笑)第5番、第4番、「タピオラ」は、第5番のアダージョにアッチェレランドが若干きつい部分があるのみで、ほぼ文句の付けようがない。
さて、問題の交響曲第2番である。なぜ問題かというと、常々書いてきている通り私はこの曲があまり好きではないからである。
なぜ好きではないかというと、いかにも「後期ロマン派の交響曲でござい」といった感じで、シベリウスが「置きに行っている」感がするからだ。そして、そういう曲をまた「後期ロマン派の交響曲の指揮法はこれででござい」といった感じの「置きに行っている」指揮を聴くと、さらにうんざりしてしまう。
なので、以前から書いている通り、キャッチャーな曲ほど真摯に演奏すべき、というあくまで個人的な持論から、この曲はストイックに演奏するべき、等と思っていた。

しかし、このカラヤンの演奏、いかにも「後期ロマン派の交響曲の指揮法はこれででござい」感満載なのに、まったく不快感が無い。ここまでやり切ると逆に不快感が無くなるという事か?それともこれがカラヤン・マジックなんだろうか。いや、交響曲というより、これはオペラの一部を演奏しているような雰囲気で、こういうやり方もあったのか、と目から鱗である。カラヤン嫌いは直す気はないが、シベリウスに関しては改める。

最後に「フィンランディア」であるが、これは下品で軽薄な演奏でひどかった。

何にせよ、ベルリン・フィルとの録音も聴いてみたくなるが、人によってはフィルハーモニア管の方がいい、という人もいるので悩むところだ。