フランク・ハーバート「デューン 砂の惑星」新訳版を読んで

ホドロフスキーのDUNE」を見、

http://hakuasin.hatenablog.com/entry/2018/12/23/062150

石ノ森章太郎のイラストの「デューン 砂の惑星」を読み(第4巻のみ入手できなかったが)

http://hakuasin.hatenablog.com/entry/2018/12/30/040758

正月休みで時間がある、ということで、とうとう寝かせていた新訳版を読むことにした。


http://hakuasin.hatenablog.com/entry/2017/06/18/124600

上記でもあったが
「旧版に比べて所々にあった小さな引っ掛かりというか、文脈の前後から感じる違和感が大分解消された」
等、大変わかりやすくなっているのは確か。

しかし、例えば旧訳でこんな文章がある。主人公ポウルが砂漠用のスティルスーツという衣服を初めて着るにもかかわらずうまく着こなしていることを見て、惑星学者カインズがこう問いかける。

 

「あなたの砂漠用長靴(デザート・ブーツ)は足首のところでスリップ・ファッションにしめてある。だれがそうしろといったんです?」


原文はこうだ。


"Your desert boots are fitted slip-fashion at the ankles. Who told you to do
that?"


そして新訳では


「砂漠ブーツも、足首を動かしやすいように履いている。だれに教わりました?」

 

旧訳で読んだときはスリップ・ファッションがぴんと来ない。しかしその後の文脈から正しく履いていたのだ、とはわかる。
新訳ではスリップ・ファッションの「ス」の字もない。しかし、読んでいる日本人に意味を伝えるならこっちで充分である。

しかし、である。なんか寂しいのだ。確かに新訳はわかりやすくてサクサク読める。旧訳はいちいち読み手がいろいろと考えながら読まなくてはいけなかったが、実はそれを楽しみながら読んでいたんだな、ということを今更ながらに気づいた。

また、これだけ長年翻訳物を読んできたり、洋楽を聴いてきたりしていると、英語独特の言い回しとかがなんとなくわかってくるし、翻訳された文章を見て、原文はたぶんこんな感じだと想像がつく事がある。
以前こんなことを書いたが

http://hakuasin.hatenablog.com/entry/20060619/p3

小説の中のセリフ回しにも同様な事が言える。

冒頭第1章のラストで、クイサッツ・ハデラッハ(新訳ではクウィサッツ・ハデラック、これは映像作品でもこの発音だったからこっちが正しいのだろう)になれたものは一人もいない、というベネ・ゲセリットの教母にポウルが尋ねる。

旧訳では

 

「その連中はためし、失敗した。その全部が?」
彼女は首をふった。
「いいえ、ちがうよ。かれらはためし、そして死んだのさ」

 

これを見れば、原文の二人のセリフが同じリズムをもち、1語だけが入れ替えられてある、という事は容易に想像がつく。

実際の原文は

 

"They tried and failed, all of them?"
"Oh, no." She shook her head. "They tried and died."

 

で、並べてみると


They tried and failed
They tried and died


となり、思った通りであった。

 

新訳では


「試したけれど、失敗したのですか?全員が?」
「いいや、そうではない」老女はかぶりをふった。
「試した結果、死んでしまったのじゃよ。全員がな」

 

どうだろう、この文章から原文のリズムや対比が感じられるだろうか。
そんなことは日本語で読む読者には全く関係ない、という意見も正しいと思う。
原文のリズムを気にして、わかりづらい文章になっては本末転倒である、というのも間違っていない。
翻訳というのは完璧というのは無い。文法も違えば文化的背景も違う。だからひとつひとつの語句に拘泥することなく、その奥にある意味を伝えるべき、というのもわかる。

しかし・・・・個人的にはなんかなあ・・・・と思うのだ。